<ノンフィクション>

(この項目、あとで書き換える可能性あり。)
part twoとして「声の誕生」から最後まで書いて終わりにしようと思っていたのだが、ちょうど今、ガラスの破片を手に持って見つめている(実際にそうしているわけではない)状態なので、ここで使われている<ノンフィクション>ということばについて少し考えてみたいと思う。


よくいわれるように、ノンフィクションもまたフィクションである。厳密にいえば、両者のあいだの決定的な違いというのは、ない。ただ、フィクションは虚構性が高く(だが、カフカを単純にフィクションだといえるほど暢気な読者はこの項目を読み飛ばしてもらって構わない)、ノンフィクションは事実、というよりもむしろ誰かの証言をもとに構築されたテキストである。当然ノイズは多い。同じ場所にいて同じ体験をしても証言が同じになることはまずない。感じ方が違ったり、物の見方が違えば当然矛盾したものになる。芥川龍之介の『藪の中』のように。


『サマースプリング』もその意味においてフィクションである。虚構だと言っているのではない。「アタシ」の体験したリアルがテキスト化されたものであり、そのためにノンフィクションと呼ぶことが可能となる。


別ないい方をすれば、このリアルは「作者」と同じものである。吉田アミと「作者」のあいだには距離がある。


作中「アタシ」が創作をしているところがあるが、あそこで創作物と「アタシ」は等価になっている。つまりリアルだ。それと「作者」のあいだの距離も同じ性質のものである。


この距離感が『サマースプリング』の湿度を極端に下げている。漱石なら写生文と言うだろう。曰く、「大人がこどもの泣くを見るの態度」。


実は多くのノンフィクションはこの距離感の取り方に失敗していて、ぐずぐずの煮崩れか、墨になるまで焼いたステーキみたいになってしまっている。


このことから、『サマースプリング』はノンフィクションやドキュメントというよりも、むしろ「アタシ」を巡る優れた小説だと私は考えたい(李良枝の『ナビ・タリョン』と似ているとような気がしてならないのはなぜか。どちらもこなれた文章とは言えないが、それが何であろうか)。事実に基づいているかどうか、というのは吉田アミや「作者」にとっては重要な問題かもしれないが、読者にとってそれはワイドショー的な些細な問題であり、むしろ距離感がありすぎるかもしれないテキストを読み込んでいくことに心を砕きたい。


次回、この辺を踏まえて完結させたい。