吉田アミ『サマースプリング』太田出版 part two


間にいろいろ挟まってしまったが、続きを。「声の誕生」の章以後は、ハウリング・ヴォイス・パフォーマー吉田アミの誕生の物語ではない


一呼吸置き深呼吸して、渾身の力を振り絞り、声を発しようと意識を集中させた。

「……ぅぅぅ、あーーーーー。」

人間の声ではない。物の怪のような存在感のない音。叫ぶこともできないのか? 腹に力を入れようとしても空気が漏れてしまう。喉の奥がきゅうっと締まる。力を入れると音が掠れるだけだ。ダメだ、力を抜かなくちゃと意識すればするほど力が入る。
もうだめだ。
倒れるように床に膝をついた。その瞬間、ことばが溢れた。

「あ、喋れる。
ぅーあーぅーあーあっ、あっ、あ。い。う。え。お。か。き。く。け。こ。さ。し。す。せ。そ。……」


なんとか声が出るところまでこぎ着けることはできたが、声にならない「音」。だが、ソボがまともになり、ハハがおかしくなると、事態はさらに進行し、逆転する。

段々、白けて、どうでもいい気持ちになってきたが、それでも泣いた。泣き続けた。ただ意味もなくひたすら泣いた。
その泣き声は、不思議なことに、赤ん坊の泣き声にそっくりなのだ。
アタシはうずくまり、胎児のように背をまるめ、自分自身を抱き、力一杯なくとこんな赤ん坊のような声が出るのか、と少し冷静になった。
次第に涙は止んでいったが、泣きしゃっくりだけはしつこく繰り返した。
苦しくて息ができないのに泣きしゃっくりだけは止まらない。
そのうち喉の奥をひゅーひゅーと掠れた空気が抜けていき、小さなハウリングのような不思議なノイズが出た。機械のような虫のような鳥のような、高音の、声にならない叫び。
そして、喉が「ボコッ」となった。
そうしていると少し落ち着くことができた。ちょっとだけ気持ちが楽になるような力強い叫びであったから。


最初は赤ん坊のように泣いていた「アタシ」の喉に変化が訪れる。ハウリング、声にならない叫び。アタシはその声によって少しではあるが落ち着きを取り戻す。「ちょっとだけ気持ちが楽になるような力強い叫び」。


これを自分を取り戻したり、生きていこうとするような何かと結びつけるのも誤りである。これはあくまでも「アタシ」のひとつの極限状況での体験であり、そのような声あるいは叫びが出るということの発見の「物語」なのである。そこにはまだ希望はないが、萌芽がかろうじて読み取れる。


また、後にこれがハウリング・ヴォイスに発展したと考えるのも誤りである。吉田アミは「アタシ」の体験をどこかで再発見しているのである。ではハウリング・ヴォイスの起源はどこにあるのかといえば、吉田アミがまだ名前のつかない叫びのような何かを自らの「表現」に使おうと思ったとき、あるいは使わざるを得なかったとき、遡行して「アタシ」の記憶の中に発見するのだ。


「表現」を括弧で括ったのは、常に常にこの言葉には次のような誤謬が付きまとうからである。たとえば楽しいという感情があって、それを形にすること、したものが「表現」ではない。プロセスあるいはその結果が「表現」なのである。そこにはなんの意味もない。否定的に言っているのではない。テキストならことば、音楽なら音が先にあるということである。これは絶対だ。


自らの声にならない叫びのようなものは、未来において「アタシ」を救うかもしれないが、このときは一瞬の危機を乗り越える助けにしかならなかった。エピローグにおいて、話はプロローグに戻る。ガラスの破片を持った「アタシ」。もうひとつの声が聞こえてきて、死ななければならない理由を問う。「アタシ」はその声を否定してガラスの破片を握りしめる。血が滴る。そしてある種の現実逃避状態になっているうちに、左手の手首をガラスの切っ先がかすめ、血が吹き出る。フィジカルな危機状態。またもうひとつの声が聞こえてくる。そして「アタシ」の未来についての可能性を語る。1989年。ノストラダムスの大予言の1999年まで10年。「アタシ」はとりあえずそれまで生きてみることに決める。


フィジカルな痛みと、内なる<声>『私は、生きたい。』


生きたいのは本能でもなければ自問自答の結果でもない。内なるもうひとつの声は死にたくないのではなく、生を指向する「私=アタシ」。だから「アタシ」のことを突き放しながらも手首を切ってしまった「アタシ」を説得する。今ならまだ間に合う。ぎりぎりでのやり取り。「アタシ」は家を出て父親のところに行くことにする。


自殺する根拠は鬱病だったり八方塞がりだったりいろいろなものを抱え込んだりと、実は根拠はないんだが説明はつきやすい。でも、生きることは、ほとんどの場合説明さえつかないし(生まれてくることは自分で選択できない。だから芥川は『河童』であんなことを書いた)、やはり根拠がない。根拠とか起源といった類のものは、遡行して「発見」されるようなもので、いわば「物語」であり「神話」だ。


この「小説(そう、小説だ)」が非常に奇妙かつ特異なのは、ほとんどのフィクション(ノンフィクションも含む)に共通する、文章にはなっていないが、「行間」というわけの分からない暗黙の了解的魔物が存在しないところだ。書かれているところしか読むところがない。


辻褄合わせも何もされていない。一貫しているのは「アタシ」という存在だけだ。どうでもいいことだが、私小説の隘路に迷い込んでしまった人たちが実現できなかったことが、はからずもここにあるような気がしてならない。


無茶な話だが、晩年の芥川に読んで欲しかった。堀はそこから無根拠な「生への欲求」へと向かったのではないか。


そして「アタシ」は無根拠に生きる道を選ぶ。


書き足りなかったりエラーがたくさんあると思うのだが、いちおうここで終わりにしておく。私は13歳の少女とはほど遠い存在だが、これを書き始める前から、時期的にほぼ重なるように似たような状況にあったし、今もある。とりあえずガラスの破片から手を離したし、できればもう一度それを手に取るようなことにならなければいいと思っている。そしてこれは自分のために書いた。他の誰のためにでもない。ではなぜ誰でも読める環境に載せるのかと言えば、そこにはなんの根拠もない。根拠や起源を単純に説明できるようなものは、実は人に読ませてはいけないのではないかと感じている。それすらも無根拠だが。