吉田アミ『サマースプリング』の感想あるいは「読み」について。


基本的に私がネット上に何かを載せるとき、実は誰かの反応とか、読んでもらえるとか、そういう期待はできるだけしないようにしている。むしろ読まれたくないもの/聴かれたくないものもアップしたりしている。たぶん尾崎翠の小説に出てくるようなたった一人の読者(書き手)しか持たないような詩人であるのが怖いのだろう。アップすれば誰かが読んでくれるかもしれない。


とか何とか。今日になって「日日ノ日キ」に「どんな風に読んでもらいたいか」
http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20070730/1185773908
というエントリーがアップされていた。ああその通りだなあ、と思って自分の感想を読み返すと結構ショッキングなものがあった。愛が足りないなって。


過去に私小説を書いている人たちがテキストの分岐、あるいは島に無意識のうちにすべてリンクを張ってしまっていたのに、ここではそれを自覚的に放棄している、という点においてはほとんど前代未聞ではないかと思うのだ。すぐれたテキストとの邂逅は、運なのかもしれない。


それにしても、あの感想は自分の書いたテキストであるとはいえかなり病んだものであり、吉田アミさんが読まれたらうんざりするだろうなということも再発見したが、感想、すなわち「○○だと思いました」が「読み(書評とは言えないだろう)」にシフトしていき、書かれている内容はより一般化されていく(人ごとみたいだ)。その辺の事情はフィクションとノンフィクションとの関わりについて書いたエントリーに一般論を書いた。


そうやって読んでいくと三文小説みたいに「めでたしめでたし感動しました」、という結論からはかけ離れたものとなる。評価も逆なのだが、伝わりにくくなってしまう。難しい。


たぶんうまく書けなかったのでもう一度書いておくと、(1)「ハウリング・ヴォイス」への萌芽、と、(2)『私は、生きたい』の二つが将来的にぶつかることによって今の吉田アミがあるのだが、逆にいえば今の吉田アミがあるからこそこの「小説」は書かれ、上梓された。それはぎりぎりの生を生きた者だからできることである。


生と死について考えた人はたくさんいるが、というか誰でも一度くらいは考えたことがあると思うが、それらを何かと関連づけたり還元するとそれに依存することになる場合が多い、というのがこれまで生きてきた実感だ。科学や医学とて例外ではない。ヒトという生物の死、というのは確かにあるが、欲求が伴ってくると意外と複雑なことになる。


そこで無根拠だ、と書いたわけであるし、根拠や起源を簡単に述べられるような人のいうことは聞く気になれない。


死にたいという欲求は脳動作のエラーとも言えるかもしれないが、生きたいという欲求はもう少し難しい。子孫を残すため? それならこどもが育てば自然に死ぬだろう。だが、それとは別にヒトは生を指向する。ドストエフスキーと一緒に銃殺されかかった人は発狂したとかしないとか。


生への欲求を炙り出して見せる技法のひとつに小説がある。『サマースプリング』もそのひとつだ。ラストでノストラダムスの大予言までの十年生きてみようという決心はむしろ消極的なものだが、絶望からそこへの転回はむしろ跳躍といってもいいかもしれない。


わたしはここに、「めでたしめでたし」を読み取りたくない。そんなに軽いものではないだろうと思うから。これは読者としての私の欲求。


この文章は、これまでの感想や途中に挟まっているノイズなどを読んできた人、あるいはたまたまここへ漂着した人、あるいは吉田アミさんに向けて書いた(読まれるかどうかは別)。これもまたひとつの跳躍である。


いちばん最初に<音速>について書いたが、この本を上梓したことにより吉田アミさんは<音速>に達し、同時に<音速>を超えた、とわたしは思っている。


<音速>についてはまた後ほど。あと、フィクションとノンフィクション、「アタシ」と吉田アミさんとの関係についてはジョン・アーヴィングの小説『ガープの世界』あたりを参照していただきたい。


いずれにしても、これほどクールでドライでハードボイルドでぎりぎりのところで跳躍してしまう小説は読んだことないし、「アタシ」が容易に感情移入を許さないところは最高にカッコイイのである、と思っていたりするのだ。