『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』川上未映子、青土社
おそらく近所の書店には売っていないということでネットで注文。あっという間に届いてきた。都市近郊でもこの有様なのだ。
わたくしは装丁フェチではないので、その辺はわりとスルーしてしまう質なのだが、この本はかなりそそられた。手に取るまでわからなかったが、張り合わせのトレシングペーパーがカバーになっているのだ。それを透かして表紙の絵が見えるという寸法。
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「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」
以前に読んだ気がしていたのだが、読んでいなかったのか? 読んでいたら忘れるはずがない。ユリイカは買っただけでしばしば満足してしまい、後々資料的に読むことのほうが多かったりする。それかもしれない。
いや、それで手元にその百合烏賊があって、この号は「文科系女子カタログ」という特集であって、わたしがまったく別々な方面からストーカーをしていた吉田アミと(川上)未映子の文章が期せずして隣り合わせに載っていて、これは偶然か必然か何かの差し金かさもなくば何かの陰謀か、と思ったくらいで、実は二冊持っていて片方には「吉田アミ」もう片方には「未映子」のサインがあったりする。
手元のユリイカを読み返してみると別の既視感があって、当時おそらく字面を読んだのであろうけどそのままになってしまったのであったのかもしれない。このテキストは『頭の中と世界の結婚』というアルバムの中の「結ぼれ」の解説になっている、あるいはその逆。最初に世の中に出たテキストは実は歌詞だったのだが、それが散文化するとこうなる、みたいな。
「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」
二つ目の「おしっこ」には「乳と卵」の銭湯のシーンみたいなのがあるのだけど、銭湯におけるいちばん有名な描写というのはおそらく漱石の「猫」におけるものであって、あれはスイフトの影響がもろ見えみたいなんだけど、ここでもなんとなくその延長上にあるように見えるけど、人体はさらに変容して、観察すべき対象とは別なものになる。
「先端」で下半身のまぶたというようなことが書いてあったけど、バタイユは本当に目玉を押し込んでまぶたにしてしまった。シェイクスピアもよく涙を流す目とか何とか書いていたはずだ。
「おしっこ」は朗読を聞いたのは確実だけど、読んだ記憶がない。だめなストーカーだと思う。
「ちょっきん、なー」
これひとつ読んだだけで憔悴するほど。恐るべき身体感覚。最初から最後まで髪の毛が付きまとう。そう、付き纏う。なんて恐ろしいこと。
最初は「第七官界彷徨」の小野町子の髪の毛のことを思ったのだが、髪の中に手を入れるというところでは図らずも「天使な小生意気」とはまた違った恐ろしい展開を見せて、語り手の少女の切ったあとでもすぐにぶわっと膨らんでしまうその空間はひとつの世界で、前後左右から四人の少女がその中に手を突っ込むのだ。
語り手の前にいる少女はまるでソクラテスのように首、そして手首について語る。そして手首にまつわる恐ろしい話をするのだった。少なくともわたしには恐ろしかった。
そしてとんでもないことになって家に帰ってきた語り手の少女は、読んでいるだけで手首が辛くなってくるようなことをする。わたしは昔から手首が怖いのだ。ちなみに自分で脈を計ることもできない。静脈を見るのも嫌だ。
だから、今日はこの短編をひとつ読んだだけで憔悴してしまった。
この本自体、一日で読みきれる本じゃないでしょう? 読めちゃうような人とはお付き合いしたくない。
ところでこの掌編、おそろしくエロティックなのであって。男の子にわかるんだろうか。その辺が少し不安。いや、不安じゃないけど。男の子、特に「文学」とか「哲学」を語って悦に入っちゃう連中は最初から嫌いだからいいの。
「彼女は四時の性交にうっとり、うっとりよ」
百合烏賊に掲載されていたのだけど、読んでなかったです。ごめんなさい。雑誌って買うと満足して読まなかったりすることが多くて。だからあまり買わないのです。できれば立ち読みで済ませたいけど、青土社の本は買いたいから。
推論と経験という話なのだけど、そうわたしたちは推論の中に閉じ込められていて、たとえば「完全な性交」みたいなものを考えてみても、それはどうしたってあり得ないものであり、だから推論の立場からそれを希求すればうっとり、なのです。きっと。
ああなんだか書評みたいで嫌だ、すごく。彼女というのが出て来て公園でお弁当を食べようとしたら鳩がたくさん落っこちてきたので怖くなって弁当を投げたらその中に性交している鳩がいる。あちこちにいる。それで量はすごいなあと。
わたしは時間というものも考えていたのだけど、時間も当然量なのであり、量を極限まで考えると無限になるわけで、数学的に考えるとなかなか楽しいのだけど、彼女は公園のトイレで便座に座ってある行為にいそしんでいて、でも文字を書いていてもいるし彼と午前四時に性交して結局は彼女と彼の推論が平行線をたどるのだけど、その平行線に絶望するのではなくうっとり、うっとりする。
そしてたぶんこの散文は詩であり小説の類ではないのでしょう。ジャンル的な意味でのカテゴライズは無意味ですが、形式、ということを考えたとき、小説というのはおそらくもう少し推論を信じているのであり、詩というものは推論を実践していくものなのでしょう。わかりにくい書き方ですが、この散文を詩だというのなら、それがいちばんわたしにはしっくり来るような気がします。
ちなみにわたしにとっての「詩」の「教科書」は「さようなら、ギャングたち」一冊だけです。
「象の目を焼いても焼いても」
これは確かに読んだ記憶があります。最初に読んだときは「こほろぎ嬢」とか「薔薇の名前」とか思い出したりしていたんですけど、いま読むとそういうのとは別に、怖い。
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私たちは生きたのよ。ある一冊の本が私の背中をどんと突きます。私たちは生きたっていうのに、あんたは何をしているの? また、ある本が私の脛を強く削ります自尊心の化け物はこんな顔をしているのね。こんな風に最近ではここに来ても罵声を浴びせられることが多くなってきました。
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語り手が「象の目」と呼ぶ図書館はほかに居場所がないから最後に来る場所だったのに、とうとうそこにも居場所がなくなってきた。本が語り手を攻撃してきます。それを交わすために逃げ込んだのがトイレだったのですが、その鏡はきれいに磨き上げられ、それはきっと母親くらいの年齢の人が磨き上げたと語り手は思います。いやむしろ、母親その人がそうしたと思うのです。その前で語り手は醜く、惨めな気持ちになります。
そして語り手はある一冊の本を手始めにライターで本に火を付けまくります。そして自分の書いた三行だけの詩の入ったバッグを火中に投じます。ここで恐ろしいことが語られるわけですが、それはつまりその詩が交換可能であるということ、それは「象の目」である図書館が再び誰かによって作られるということと等価なのです。
でも、「詩は一度生まれたのです。」生まれて生きて死んでいった「象の目」の本たちと同じように。
語り手は走りながらこういいます。
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(……)この世で生まれ、生きて、死んでいく、それ以外を生きる人が、いるんだろうか! いや、決して人は結局それだけだと、まだ死んでもいない私が笑うのです、げらげらと、複雑さを、この唯一の存在の仕方を、(……)
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それは「象の目」を嘲笑うのでもなくヒステリーでもなく「象の目」の優越が反転する瞬間です。それはおそろしいほどの生の肯定です。だから語り手は走りながら口から皿を吐き出しながらそれを片端から踏みつけて割るのです。そして皿は例外なく割れるのです。
「告白室の保存」
2008年1月4日の「純粋悲性批判」に、「そして歩きながら不特定多数の異性と性交ができる人と、出来ない人の違いについてかなり真剣に考える。というか、去年はこのことをけっこう長い時間考えてたような気がする。わたしにとってここにある問題はかなり切実な問題なのです。」という箇所があるのですが、その問題に正面から取り組んだ作品、というと違うかもしれないのですが、それと密接に関係した作品であるということは間違いないと思います。
「わたし」と「あなた」と《一年間性交女》との関係。
「彼女は四時の性交にうっとり、うっとりよ」でもそうだったけど、ここでもある種の平行線というかねじれの位置というか決して交わることのない会話が続くのだが、性交しているとき、「わたし」と「あなた」が顔を見合わせたりからだを見せたり接触していたりするときにはそれはノイズのようなものの中でかき消されてしまう。身体的なもの、といってもいいのかもしれない。
「わたし」は性交の後、外から「あなた」に電話をする。そして《一年間性交女》の名前を聞き出そうとする。
「あなた」は「わたし」のことを特別だという。《一年間性交女》については名前も忘れたという。「わたし」はそれは嘘だという。名前を忘れるはずがない。「あなた」は名前をいうことは無意味だという。
「あなた」は毎度のことにうんざりしている。「わたし」はそれでも知りたいと思う、調査したいと思う。知りたいと調査したいの関係は微妙だ。
「あなた」は身体性によって「わたし」の知りたいことを分からせることができると思っているようだ。男が陥りがちな、女が陥れられがちな、よくあるパターンだ。
でも、「わたし」は納得しない。《一年間性交女》の名前を知ることはその女の性交に名前を付けることであり、そのとき初めて「わたし」に対する「あなた」の性交が特別なものとなる。「わたし」はそれに苛立ってこんなことを言っている。
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あなたがそれはまったく別のものだって言葉で補えば補うほどわたしにはわたしとその女とあなたとの性交の交わるところが珍しくもない生地の模様みたいに飛び出てひらひらしてそれがわたしの鼻と喉を行ったり来たりするのが見えるわ。
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そして最後に夜の中に光と言葉を見る。「夜には光と言葉しかない。」それはそれ以外の何ものでもない。光と言葉のプール。そこに行き着いてしまうと、知りたい、調べたいのペアも無効になってしまう。最終章のタイトルは「類似」。光と言葉の。「わたし」もしくは読者は、光と言葉のプールの中に放り込まれて、でも決して困ることもないのだ。
「夜の目硝子」
ひとことで言えば、少女が古くなったコンタクトレンズを新しいものと交換しに行くというだけの筋立てだが、古いコンタクトレンズが新しいコンタクトレンズに変化することによって少女も世の中も変化するのである。
おそらくこれも言葉と光の類似、という見立ての延長線上にある作品なのだろう。そういう記述が多くみられる。
ああいやだいやだ、こんなことを書きたいのではない。
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(……)またも夜、窓を開けて眠ればドアとの一直線を結んで、風が絶えることなく吹き抜ける、壁があるのに、馬鹿みたいに、部屋のなかを風がいつも吹いているなんて、馬鹿みたいだ、(……)
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似たようなことが「純粋悲性批判」に書いてあったような気がする。ニュアンスはまた別。
少女の住んでいる場所は渋谷までバスで行ける所。たくさんある。作者の見解についても記憶しているがそれはさておき、「バスを選んでバスに乗って」というのは重要である。どんな乗り物もそうなのだが、バスもまた特別な乗り物のひとつである。個人的には、都市部において、午後から夜にかけて、その特別さは徒歩と自転車を除いた一般的な公共交通機関において強度を増すように思える。それはきっと軌道上を走っていないということと、外が見えてしまうということと関係がある。
コンタクトレンズを手に入れるまでの少女はなんともうんざり感に満ちている。
ところでこれは少女と逆なのだが、わたしは歌番組で歌詞がテロップで流されるのをみるのが死ぬほど辛い。本当に辛い。歌詞の意味なんてわからなくても構わないといつも思う。外国語であっても。聞き取れない言葉であっても。
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はるか向こうには西の空、燃える空、黄昏王国、雲れびの登用、少女はもっと幼いころに、その全部を目に入れたことある、飲み込んだことがある、押していた自転車が倒れ、スカートが固まり、そのときたちっぱなしの少女の体は見事に空を、発光していたのだった。空を閉じ込め、空を再現、(……)
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このような体験をしたことのない者は不幸かもしれないし、かえって幸福かもしれない。その次に続く言葉は「あのまま少女が動かずにいれたなら、役立つものにただただ印をつけてゆく、こんな毎日のむなしさが少女をつかまえることなどなかったはずなのに」だからである。ちなみにわたしはそういう瞬間を持ってしまったひとりだ。笑いたければ笑うがいい。
少女はコンタクトレンズができあがるあいだ、読み捨てのくしゃくしゃの新聞紙を開いてそこの大きな写真の中につるりと入る。コンタクトレンズはしていない。
それからコンタクトレンズを入れ、よく見えるようになった目で見るさまざまは以前のそれとは打って変わって鮮明。クリア。
そして家計簿を落としたことに気付く。見つからない。
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誰か拾って、誰も拾わないで、「世界のみずみずしい輪郭にうぬぼれたお返しに、さようなら」
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バスに乗ると、世界が乾燥から濡れて光りだしていることに気付く。新しいコンタクトレンズと夜のバスマジック。バスとはこういう乗り物なのだ。午後から黄昏を経て夜へ。
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これで「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」のすべての感想を書き終えました。もっと正確に読まなくてはならないと痛感しました。本を読んで感想を書くのであれば、できる限り正確に読まなければならないし、読書の技量的な面においてそれ以上大切なことはないと思っています。それは永遠に希求し続けなければならない類のことでしょう。
それとは別に、この本が150ページ程度しかないのにおそろしく読むのがきつかったということです。しかし文章そのものはきわめて明快であり、よどみのある箇所はほとんどないのです。それはいわゆる透明な文体ということではなく、むしろ徹底的に不透明な文体ということであり、ついさらさらと読み進めてしまうと取り返しの付かないことになるということでもあります。しかしそれが読書の楽しみでなくてなんでありましょうか。
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