『戦争花嫁』川上未映子


川上未映子『戦争花嫁』早稲田文学(復刊)1号:ネタバレ、というのも変だけど、ネタバレしてます。これから読むつもりの人は注意。)


この作家は、どうして毎回こうも、次のステップへ進むかなと思う。ひとつも隙がない。もしそれで行けるのであれば、ずっと短編や、掌編や、何ともいえない短い散文を書き続けては、くれないものか、と思ったりもするのだが、次にやってくる作品がどんなものであるかわからない以上、こんな意見も即座に撤回、ということになるかもしれない。

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 ある女の子が歩いているときに、不意に戦争花嫁がやってきて、それはいつもながら触ることも噛むこともできない単なる言葉でした。なのでつかまえて、戦争花嫁、と口にしてみれば唇がなんだか心地よく、豪雨の最中だというのに非常な明るさの気分がする。
 だったらわたしはこの言葉がとどまってあるうちは、自分のことを戦争花嫁ということにしようと女の子はこれもまたことばでうきうきとする。

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「戦争花嫁」とは何とも不思議な言葉ではある。たぶんいわゆる戦争ともいわゆる花嫁とも関係がない(そうなのか?)。このことは、少女が記録している綿のノート(それはいったいどのようなものなのか?)に記された言葉と似ていないように見えるのはなぜか。漢字で表記されているからか?


レッド・ツェッペリン」「フィレンツェ」「アウシュビッツ」「ライセンス」「バーキン」。たった五つの言葉。それらの言葉もひとりでいるとき以外は発語されない。


少女は人を傷つけることをとても恐れている。「傷ついたことのある人は、永遠に傷ついているのだということ。」発語はそのトリガーとなり得る。だから女の子はあまり喋らない。


すぐには意味を持ち得ないように思える「戦争花嫁」という言葉をもって、少女は自らをそれに同化させる。それは自らが意味を持たず、それゆえ人を傷つける存在になるかもしれないことを回避する一つの手段でもある。そのあとにマッサージ体験における「傷つける」と言うことの不可逆性が語られるが、この痛みというのは割と誰でも経験するところのものではないのだろうか。


少女は、戦争花嫁は、<永遠に傷つけてしまう>ことを極度に恐れている。


だが、発語しないことによって、誰かの領域に滑り込まないことによって、少女は変化していく。


発語しないことによりほかの誰を傷つけることもなく(いいかえれば、誰の人生にも介入することなく)、その代償として(?)目が巨大化していく。発語しないということは、誰の人生とも交わらないということは、結果的に観察者に留まらざるを得ないわけで(たぶん)。脳や網膜というよりも目という感覚器官の中に蓄積された諸々。


少し前後するけど、目のことについても少し。「それを見抜いてしまう」「どんな目にあったって」というのは眼球そのものではないけれども、「このような気質を持つほかのたくさんの女の子たちときっと同じように目だけがどんどん膨らんで」というところでは、むしろ眼球になっている。指摘することや見るということに限らず経験することが、文字を通して眼球に繋がっているのだろうか。それとも、発語しないことによって、眼球が膨らんでしまうのだろうか。


このあと戦争花嫁は大人になり結婚をして子どもを産む。結婚した相手は「世界中の絨毯をよく知りよく売る男」だった。絨毯とはなにか。テキストの語源は織物。だとすれば、この男はあらゆる言語に通じる者、なのかもしれない。戦争花嫁が、ひとりでいるときに発語していたことさえやめてしまっていても、書かれているものはテキストであり、意味を剥奪することはできないのである。書き、読み、発語する限りにおいて。言語によるコミュニケーションができない場合は別であるが、戦争花嫁は発語しないだけで、コミュニケートできないわけではなく、言語でそれをしないのだ。


それを書くことは矛盾であることを百も承知で、作家はテキストを紡いでいく。


「戦争花嫁」は、だんだん固有名詞のように取り扱われていくように思えるが、たとえば同じ作者の登場人物の名前と違い、交換可能であることに気付く。いや、本当は交換可能ではないのだが、機能の仕方が違うのだ。たとえば「乳と卵」の<緑子>が別の名前、何でもいい、<茉莉>だったとしたら、あの小説はまったく別のものになってしまう。でも「戦争花嫁」が<器官なき身体>であっても、構造的にはそんなに変わらない。気がする。いや、勘違いかもしれない。書いてみると、恐ろしい。


<緑子>が<戦争花嫁>だったら、ものすごくシュールで都知事がさらに激怒したかもしれないが(誰も怖くないけど)、<戦争花嫁>が<緑子>だったら、この少女、女はどうなってしまうのか。


海外旅行に行ったときに、もしここでパスポート他、いろいろなものをなくしてしまったら、日本大使館にでも駆け込むしかないのだが、海外に長く駐在している人が、長く日本に住んでいる中国人と日本人と韓国人を見分けることが、たとえばできるのだろうか。証明するものは何も持っていないのだ。もちろんしかる後に身分は証明されるわけだが、それまでの間、いったい何物になってしまうのか。


<戦争花嫁>がその少女、女のラベルになってしまってから、少女はいったい何物なのか。もし、<戦争花嫁>から、完全に意味が剥奪されていたとしたら。でもそれはあり得ない。なぜなら<来火玲区>とか<@@@@>のような、無意味な文字列ではないからだ。それはラベルとしての機能を果たし、同時に<戦争花嫁>あるいは<戦争>と<花嫁>のある種の演算の結果を示してしまう。それから逃れることはできない。

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(……)戦争花嫁はついぞ消去されることはなかった。空白になることはもう、なかった。それはうんと長い時間のことで、毎日の織り込まれていく形状のなか、戦争花嫁はかならず戦争花嫁だった。

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織り込まれていく、というのはおそらく絨毯と呼応している。織物、テキスト。テキストでありながらも発語されないことによって。

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世界のいったいどこにおいて、戦争花嫁は成立していたのか。というようなことを、戦争花嫁はもう考えなかった。そこにはやっぱり誰かの永遠にかかわるようなものは、最後まで見あたらなくて、戦争花嫁はそれで満足とはいかなくても、なにかを守ることができているきもちでいたのだった。

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子どもが死んでも夫が死んでも発語せず、砂の多い所で拾ってきた犬と暮らすようになる。晩年。発語しないかわりに、おそらくは巨大化しすぎたために視力はほとんど失われ、ということは、観察者であることからも遠ざかりつつあったということでもある。そのかわり、「犬という動物に出会ってからその肌触りからくる似通いに何度も涙のでる思いで毎日を生き」た、と。


よくわからないのは、何に似通っているかということだ。これはとりあえず、保留にしておきたい。


そして最後の夢を見る。戦争花嫁の崩れそうな肋骨のなかで起きた出来事、というのが奇怪といえば奇怪だが、夢とはそういうものだ。ものすごい勢いで膨張する、すさまじく青い空と褐色の大地だけの世界。そしてものすごい勢いで小さな家が燃えていた。家そのものは見えない。音はしない。


まるでこれまで戦争花嫁が見てきたすべてが解放され、さらにそれを上回ったかのように、わたしには思えた。<観察>のインフレーション。そして戦争花嫁の、誰かの永遠に関わらずにいることが成就することができたように<見えた>。でもそれはあまりに荒涼とした<風景>だった。

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(……)目に映る何もかもはあんなに鮮やかに燃え続けているのに、その風は氷を溶かしたように冷たく、あまりに冷たく、そのしわだらけの手を肋骨のうえにあてるのがやっとで、その目は火と空と土のすべてを飲み、体は冷えつづけ、戦争花嫁はそこからもう永遠に、一歩だって動くことはできない。

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