市川真人(前田塁)+川上未映子トークショー&サイン会 2008/04/29@青山ブックセンター本店


忘れてしまいそうなので、例によって箇条書きになるけど、メモがわりに。にしても、Sonic先生の次はこのトークショーというのも、統一性があるようなないような、微妙なところであります。そいえば最近メカネタがあまりないので、そっちも何とかしたいです。でもプリンターを買いました、というくらいしかないかも。どんどん捨てているしなあ。そういえば、MySpaceのメールってなんだかよくわからなかったんだけど、つまり、ブログと何か違うのかというか、要するにMySpaceのシステムにどうもなじめない、というだけのことなんだけど、数日前に見たら、海外の弱小レーベルから二ヶ月くらい前に「うちでアルバムかシングル出さない?」というようなメールが来てた。でも「すぐに」と書いてあった。いけませんね。でもどこまで信頼していいのかわからないので、いいことにします。


前置きが長すぎ。最近いつでもこんな感じ。助走を付けないと何も書けない。


さて、たいへん失礼なことだったと思うのだけど、わたしは市川真人さんあるいは前田塁さんという方のことをまったく知らなかった。なんとなく、書名だけでわかったような気になってしまったのだ。『小説の設計図』。そんな気になりませんか? なりませんか。そうですか。ごめんなさい。


青山ブックセンターの本店には、昔も今も行ったことがなかった。いちおう表参道から徒歩、ということになっていたのだが、かなり歩く。歩く。歩く。渋谷よりは表参道に近いと思うが、帰りは結局だらだらと薄暗い坂を下っていったのだった。


向かいに青学、隣に国連大学、みたいな位置にあって、看板がなかったら絶対に発見不可能なビルの奥地に存在していた。にしてもわたしの携帯は最近ものすごく感度が悪い。端末のせいなのか、それともSBのせいなのか。端末は4年くらい前のものだ。デザイン的に気に入っているので使い続けているが、使えない場所も多い。もっとも携帯がどうしても必要、ということもあまりないのでその辺は気にしない。ちなみにvodafone V602T(TOSHIBA)という機種の、ホワイトの方だ。ほかにシルバーのもあった。


ぜんぜん関係ないことを書いているな。仕方がない。よくあることだ。やれやれ。


ドアを入るとすでに列ができていたが、まずは前田塁『小説の設計図』を購入。ABCで買わなきゃサインしてくれないはずなので、買わずにいたのだ。列に並んでいる間に最初のところを読む。太宰の「走れメロス」についてとても楽しい解説がなされていた。もうそれだけで嬉しくなってしまえるような、そういう感じ。


ちなみに、わたしは「走れメロス」を読んだことがない。中学か高校の教科書に出ているらしいのだが、わたしの習った国語教師はなんつーかマニアック系で、中学の時の先生は短歌だか俳句だかをやっていて、高校の先生は夏休みの宿題として文庫本を読ませ(漱石の「心」は普通だが、著者忘れたけど、岩波の「海の沈黙」なんて普通選ばないよな)、二学期いっぱいそれを読んでいく、というようなスタイルで授業をしていた。当時はものすごく難しかったような気がしていた。本なんて読んでいなかったから。


まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、「走れメロス」を未だに読んでいないのである。本は買ってあるのだけど、実は途中で体調を崩して読めなくなってしまったのだ。これを機会に読んでみるつもり。


さて、定員130人満席ということで、賑やかしい。そんな日本語あるのか? まあいいことにする。


基本的に、未映子さんのトークショーだから出かけていくのだけど、なんでか知らんけど、対談相手の男性が、いろいろな点においてわたくしの趣味に合うのであるのはいったいどういうことか。穂村さんもそうだったし、今回の市川さんもそうなのであった。惚れるぜ。


未映子さんがどんなドレス着ていたとか、そういうのはほかの方が書くんだろうけど、黒いドレスでありました。首のワンポイントの赤が素敵でありました。市川さんは、眼鏡!


あ、それから前田塁というのは、市川さんのペンネームというよりもある種のプロジェクトネームだそうです。わたしのEmulatorと似てますね。


なんつーレポートを書いてるのだ。最初ちょっとしたウォーミングアップをしてから、前半川上未映子さんが市川真人さんに質問、後半はその逆、という進行。


ここから先は、順序とかわからないので、箇条書き。


・批評について。川上さんから市川さんへ。最近は感想に近い批評(これってわたしは読んでないんだけど、いわゆる印象批評よりももっとゆるいものらしい。限りなく感想より、らしい)が主流だけど、もっと硬い批評が出てこないとバランスが悪いのではないか。これに対する答えは、早稲田文学の編集とか、読みのレベルとか、テキストの持つ強度とか、そういうものがいろいろ出てきたような気がする。


・川上さんは、尾崎翠について書いてみて、自分には批評は書けないと思ったとおっしゃっていた。


・市川さんからすれば、どんなテキストでも批評可能であるのだけれども、川上さんの「感じる専門家〜」を読んで、説明はできるとしても根本的には理解できないというようなことをおっしゃっていたような気がする。作家には、ロジックで書く人がいて、それが大半で、それ以外に、まあなんというかの人がいて、川上さんの場合、人のことばを理解して書くことができるけど、それはつまりロジカルに書いている大半の人と、あれな人の中間に位置するのではないかと。


・川上さんによる「テキストの主観」。以前から、「読者」「テキスト」「作者」の関係性について述べている川上さんだが、ほんとうはないとしても、仮想的に読者や作者みたいに「テキストの主観」というものについて考えている、ということ。テキストにはテキストの「考え」があって、それには誰も触れられないみたいな。それによって、「読者」「テキスト」「作者」の三位一体の関係ができあがる、というようなこと。三角形、が好きなのだそうだ、というのは聴いていたけどなるほど、と納得。にしても、川上作品をもう一度読み返す必要性があるような気がする。


・ライヴ性について。ソクラテスも釈迦もキリストもテキストを書かなかった。それはライブ感覚をよく理解していたからだ、と。川上さん自身は15分がその限界だと。ライヴの間は、わたしの言い方は正確ではないかもしれないけど、非常な強度を持って全体がグルーヴしてくれないと嫌だという。だから、トークショーをしている瞬間も、それを考えるととても落ち込むように見えた。でも、実はあのテンションでトークショーが短く感じられた人がほぼ全員ではないかと、わたしは思うのだ。時間は連続しているというよりも不連続だと勝手に思っているのだけど、市川さんもおっしゃっていたように、問題は強度なのではないか。教祖様の話も出ていたけど(^_^;、先に名前の挙がった人たちも、たぶんそういうことだったのではないのか。トークショーでは歌を歌っていたわけでもないけど、あの感覚は、ライヴのそれとほとんど同じなのではないだろうか。執筆もですけど、ライヴもお願いします。


・「在る」ということ。存在。そこからの出発。埴谷雄高もそうだったし、池田晶子もそうだったし、哲学の基本的な命題でもある。


・フォントあるいは活字の問題。わたしはほとんど気にしたことがないので(細かすぎると読めないとか、そういう問題はあるが)、聴くたびに新鮮。確かにおいしいテキストの配置というのはある。人によって好みとか、蘊蓄とかあるような気がする。それと、テキストの「顔」の問題。ぱっと見たときに見えるそれ。わたしのテキストは、なんかごちゃごちゃしていて、だめな気がする。


・家の問題。結婚して、相手と同じ家に住むことになったとき、二人の持ち物、家具とか衣類とかそういうのが混じっていく様がとても官能的だったと未映子さん。


トークショー終了後、質疑応答。いくつもの興味深い質問と回答が。そして最後にサイン会で終了。


※あと、思い出したらまた追加します。


以上であります。思い出したら後日追加するかもしれません。勘違い、聞き違いなども多いと思いますので、あくまでも参考程度に。でも未映子さん、いつもよりもちょっとだけテンション高めだったかもしれません。週末のワークショップからずっと市川さんとお話ししていたからかもしれません。その続きというか。