北里義之『サウンドアナトミア』出版記念ライブ 2008/06/03@新宿ピットイン


最近ライブレポートみたいなエントリーを書くことがいいのか悪いのか、というと語弊があるのだけど、本来流通できないものを強制的に言語化して記録する、ということになんとなく、そう、なんとなく疑問を感じることがあって、こないだ一本ライブレポを書き損ねた。書けなかった、というのもある。音楽について書くのは、批評ならばなおさらだが、たとえば単なるインプレッション、感想であっても、とても難しい。これは記録になるのだろうか。ならないだろうな。おそらくは、どこの誰ともしれない書き手の体験記の域を出るものは書けない。


では、全部CDやDVDにすればいいのかといえば、ある意味での精度は確かに上がると思うのだが、舞台中継をテレビで見ているときのような、あのもどかしさを体験することになる。


ただし、最初からCDやDVDとして流通させるために収録し、編集したものは別だ。それはライブとは別の、二次的ですらない、別の生産物なのだ。


だからもしこういうレポートを書く意味があるとしたら、どんなにバイアスがかかっていたとしても、その場所にいて、時間と空間を共有していたことの残滓が垣間見えるかどうか、ということになるかと思う。そのために必要なのは、たぶん、素直に書くこと以外にないのではないか。


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1stセット
・TRIO:中村としまる(no-input mixingboard)巻上公一(Vo,thermin)大友良英(TT)
・DUO:SachikoM(sinewave)巻上公一(Vo,thermin,etc.)

2ndセット
・「死人」:吉増剛造(朗読)吉田アミ(Vo)大友良英(G)

対談:北里義之+大谷能生


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この日は演奏中は禁煙だった。ひとつには吉田アミさんや巻上公一さんのようにボイスを使う人がいたからだろうし、ほかにも煙を嫌いな人がいたのかもしれない。わたしはたばこを吸わないので、禁煙の方がありがたいのだが。気が散らない。


1stセット。まずはトリオ。大友さんのTTは、スピーディー。誤解を恐れずにいえば、「洗練」された印象。としまるさんの出している音は、どこまでがそれなのか実はいまだによくわからないのだが(ソロで聴きたいです)、大友さんとの間で火花を散らすような、かといって絡みつくような性質ではないのだが、そんなことが行われていたことは、わかる。


巻上さんを見るのはものすごく久しぶりだが、まったく変わっていないので驚いた。テルミンと一体化した、ほとんどアンドロイド。いつの間にこんなすごいことになってしまったのか。


わたしは明らかに疲労していて、肩の力を抜け、と言っているのだが、ついものすごいテンションで演奏を聴いてしまう。それは単純なビートに身をゆだねる、というのとはまったく異なる体験。


Sachiko M巻上公一のデュオ。今回の出演者を決めた北里さんは直感で、と言っていたが、だとするならばとんでもない感覚だ。もちろんいい意味で。


あとで二人の対談で言語化されてしまうが、同じステージ上で、まったく「セッション」をしていないのだ。Sachiko Mさんの、その一徹さは並大抵のものではないのだが、巻上さんも負けてはいない。いや、最初少し合わせようとしたけど、途中からやめたのだ、たぶん。そういう合わせ方。Sachiko Mさんはマイペースというと怒られると思うが、絶対的な信念を持って、サイン波を瞬間的、あるいは持続的に出したり止めたりする。巻上さんは、最初は口琴などを使っていたけど、途中からはテルミン、そしてフリーフォームの「うた」(これは聴いたことのない人にはなかなか分からないかもしれないが、たとえばテルミンの両端を掴んで講談調で言語ではない<文字の羅列を発音したもの>を<しゃべる>。あるいは何か、演歌調などのメロディでそういうことをする。巻上さんのこれを知らない人は笑うかもしれない)をうたったり、やめたり、二人同時に音が止まったときの緊張感と来たら! 爆音とかいわゆる高度なテクニックとかいわゆる掛け合いなしでのあのテンションは、今後生きていくうちでも滅多に体験することはないだろう。


2ndセット。吉増剛造さんが顔の下半分を覆うようにセロテープで紙を貼り付けて、怪しげな雰囲気を漂わせていた。

大友さん、次もとにかくテンション高くて、今度はギターに持ち替え、弓で弾いたり、弦をゆるめたり、フィードバックさせたり、ありとあらゆることを、めちゃくちゃではなく、ものすごく的確にあるいは正確に、やっていた。


とにかく、最初に音を出したのは大友さんだった。吉田さんはドリンクを飲んで喉を整え準備。吉増さんは、何か怪しげな姿勢で舞台の中央から少し引っ込んだ場所で出番を伺っていたような。


やがて、吉田さんもボイスを出し始める。凄かった。週末日本海へライブに行って疲れていたはずなのに、凄かった。微音から、大友さんのギターのフィードバック・ノイズと呼応するかのようなボイスを。これも答えると言うよりも、むしろばらばらなのだ。

そして吉増さんもばらばらのことをする。順序は忘れたが、マイクの前で紙を破ってその音をほかの二人の音に載せる、というか別に出す。それから、詩を朗読する。怪しげなマスク状の紙をめくって、マイクの前で大声で、けいれん的に朗読する。それから、靴下とか下着を干すクリップ付きのハンガーに何か小物をたくさん付けたものを持ち出してきて、大友さんが演奏しているところに行き、ギターにぶつかるくらいのところで揺らせる。次に吉田さんのところに行き、半分ぶつけるくらいの感じで大きく揺らせる。挟んであった物がいくつも取れて落ちる。されに、ビデオカメラを持ち出し、大友さんのところへ行き、至近距離で撮影する。やはり吉田さんのところへ行き、至近距離で撮影する。それが何度か繰り返されるが、その間も大友さんは耳をつんざくフィードバック音を出したり、吉田さんはささやくようなボイスを出したりしているのだ。そういう空間が作り出されていたわけだが、視覚的には吉増さんはある種の接着剤のような役割を果たしていたかもしれない。


とにかくものすごいテンションの大友さんと吉田さんの演奏は、素晴らしかった。意外にもこの二人の組み合わせというのは聴いたことがなかった。


ここでわたしはエネルギーがほとんど切れたが、そのあとの対談を聞かずに帰れるはずもない。でも時刻はすでに22時を回っていた。大丈夫なのか、みんな? 大友さんが心配していた。ある意味そのくらい盛り上がっていた。


わたしは北里さんという人のことをまったく知らなかったのだが、間接的に大友さんのブログでどういう事情でこの本が出版されたのか、とか、その辺の事情は知っていた。詳しくは大友さんのブログを参照されたし。「大友良英のJAMJAM日記」で検索すれば出てきます。リンク貼らないのは、同じはてなだから。



じつは、北里さんが、もともとどういうことをされていた人なのかよく知らないという体たらく。ジャズに関わるところで仕事をされてきたのだろうけど、たぶんわたしはその時代のことをよく知らない。日本におけるジャズのことも、まるで知らないのだ。


巻上さんはずっと前から知っていたし、吉増さんは別の方面から知っていたが、ほかの出演者の方たちは、大友さんを含めてまったく偶然に知ったのだ。だから、大友さんがヒカシューに在籍していたということを知ったときにはほんとうに驚いた。


さて、北里さんの『サウンドアナトミア』であるが、そもそもこの本はmixiの北里さんの日記がもとになって生まれたということらしい。母親が倒れ、施設に入れるのではなく在宅介護を選んだ北里さんは、mixiの日記に評論を書き始めた。それを大友さんがしつこく(^_^; 読みに来て、出版、ということになったらしい。


大友さんは、ライブを聴きに来ないで評論をするやつなんて、と書いていたけど、その実非常に共感を持って読んでいたのだろう、きっと。微妙に偏屈だけどものすごくいい人、大友さん。この日も横から過激な発言をしていたけど、それは目立ちたいとかそういうことじゃなくて、うまく言えないけど、音楽が好きで好きでたまらない、ということによるのだ、ということが、わたしにさえよくわかるのだった。


でもそんなだから、大谷さんにフェンダーギターアンプをオークションに掛けられそうになったりするのだった(^_^;


対談については書ききれないので、ひとつだけ。時間感覚の問題。北里さんは母親の介護をしながら生活をしているわけだけど、その中で日本の医療のあり方を知る。それは、若い人が病気をしたときに直して社会に戻してやる、というもの。


でも、老人の場合はそうではない。もう、必ずしも現役で働く必要がなかったりするわけで、そうだとするとまったく違った時間感覚で生きるようになる。老人から見ると、現役で働いている若い人はスーパーマンのように見えるという。そのくらい違うらしい。


そこで微妙にジェンダー論と被ってくるのだけど、たとえばSachiko Mさんの音楽というのは非常に長い時間感覚の中で演奏されるもので、共演した巻上さんは、もっと短いフレーズで切れ切れになっている、いわば、もっと短い、あるいは速い時間感覚の中で演奏されているというのだ(ジェンダー論と関わってくると書いたのは、北里さんは前者を女性的、後者を男性的、と表現したことと関わってくるが、それについてはまた別の機会に、ということになった。これはもちろん身体的な性差の問題ではなく、ジェンダーの問題)。


その、長い時間感覚が、介護を必要とするような老人の時間感覚と共通する、あるいは想起させるものがある、というのだった。


これはなかなか興味深い問題だ。大友さんが、これに空間の問題を付け足した。そして、まだまだこういった音楽に対して語る言葉がない、というところで、終わり、ということになった。エンドレスになりそうな雰囲気だったので。わたしはそのまま帰ってしまったので、その後のことは分からない。どこかで誰かがもっと適切なことを書いていると思う。