Anne-Sophie Mutter / Trondheim Soloists 2008/06/08@サントリーホール


アンネ=ゾフィー・ムターの演奏は、過去において一度聴く機会があったはずなのだが、よりによってそのとき最初の配偶者が亡くなり、来日不可能となったのであった。カラヤンが世話をした、ずっと年上の方だったように記憶しているが、間違っていたらごめんなさい。


それ以後、何度も来日しているはずなのだが、こちらの事情とか、演目が苦手なベートーベンばかりだったりとか(そう、ある時期ベートーベンばかり演奏していた)、そんなことも重なって、あと、チケットの入手が困難なのと、入手できてもわたしにとっては非常に高価なので、なかなかその機会は巡ってこなかった。


今回は比較的早い時期に情報を仕入れて、ベートーベン中心でないことも確認し、S席は無理だったのでA席にし、ようやく聴く機会を得たのだった。


サントリーホールは二度目か三度目で、過去には迷った経験があるのだが、今回は昼間だったので迷わずにすんなり到着できた。


アンネ=ゾフィー・ムターが誰であるかを知らない人は、スルーしてほしい。


トロンハイム・ソロイスツは1988年設立、現在の芸術監督はオイヴィン・ギムセという人だ。これ以上は検索掛けてほしい。めんどくさい。「四季」のCDでも共演している。ソロイスツの名前に恥じない、素晴らしいアンサンブルだ。何しろ最初の一小節で、日本の梅雨を吹き飛ばしてさわやかな六月に変えてしまった。陳腐な表現で申し訳ない。だが、突然湿度が20%くらい下がった気がしたのはほんとだ。


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演目

  • バルトーク:弦楽のためのディヴェルティメント
  • J.S.バッハ:バイオリン協奏曲第2番ホ長調 BWV1042

  ――休憩――

  • ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」Op.8−1〜4


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最初のバルトークトロンハイム・ソロイスツだけ。バルトークらしい、というほどバルトークを知らないが、まあなんというかわたしが好きなバルトークだ。何を書いているのだ。この演奏で、先ほども書いたが、まるで乾いた爽やかな空気をそのまま日本に持ち込んだような、そんな気持ちになった。


そしてバッハ。長年の、やっとのことでのムターの演奏。大柄な人、というのが第一印象。そして音もでかいのだった。いや、もちろん小さい音も出せるが、サントリーホールくらいならばソロで十分に響き渡らせるくらいの大きさの音を出せる、という意味だ。そしてCDと同じ、あのムターの音がする。当たり前といえば当たり前だが、実際にその音を耳にすると、もうCDの音なんて平板で聴けないんじゃないかというくらい、あ、ことばが片端から討ち死にしている。つまりそういうことだ。


ソロを弾くとき若干ピッチを上げてまわりからふわりと音を浮き上がらせるのは、立体感といってもそれは四次元なわけで、聴いている側としてはその辺のコントロール具合によってもたらされる感覚が非常に気持ちよいのだ。ほかの何かにたとえても仕方がない。


あと、爆音なのだ。いつでもじゃないけど、あの小さな楽器ひとつでサントリーホールを支配できてしまうのだ、音量と技量において。


ことばにすると次々と大切なこと、肝心なことがこぼれ落ちてしまうが、泣きそうな感じではなくて、どうしようもなく嬉しくなるタイプの感動をしてしまうのだった。


そして、賛否両論よりもむしろ否定的意見の方が大きかったような気がする「四季」。これはもう、のっけから爆音で暴走なのである。観客がなぜか知らないけど小さなパート(楽章)の間ごとに咳払いをしたりするのだけど、必ずしもそれが終わるのを待たずに弓を走らせる。おお!


もちろん微細な部分での表現にも配慮はなされているが、森を見て木を見る、という気の配り方。超絶技巧にうっとりするというよりもほとんど打ちのめされる。そしてそれが快感だ。マゾヒストと呼んでほしい。


カーテンはないけどカーテンコールに続いて「四季」から二つの楽章と「G線上のアリア」をアンコールに。「G線上のアリア」は、典型的なタイプではなく、ヴァイオリンにたっぷりと歌わせる感じで。


そう、バロックとかバロック後期の音楽を専門にしている人からしたら、ムターの弾き方は言語道断なのかもしれないが、バッハやヴィヴァルディが聴いたら、絶対に納得すると確信している。もちろんなんの根拠もないが。


コンサート終了後にサイン会が開催されたことを付記しておいてもいいだろう。まさに長蛇の列。無料だったし。ヴァイオリン青年がケースにサインしてもらっているのがうらやましかった。