『いざ最低の方へ』川上未映子、ユリイカ 2008年12月号


こないだ読んだ本に、孫引きとして「詩は改行だ」という、何とも潔い、あっさりした定義(?)が書いてあった。そうかもしれない、と思った。でも本当のところはよく分からなかった。というのも、わたしは「詩」というものがいまだによく分かっていないからだ。小説だってそうなのだ、ほんとうは。ただ、確からしいのは、どちらもことばで書かれているということ、詩は突き詰めていくと形式になってしまうらしいこと、小説は細部の集積になってしまうらしいということだった。これはどちらも構造に関することであって、どんなことが書かれていることとは違った平面(といういいかたをしていいのだろうか?)で語られる問題なのだろう。


話は飛ぶが、いま、とってもお金がない。本屋さんへ行って文庫本を手にとってため息をつくばかりである。イザベラ・バードがの日本紀行の正式版がいつの間にか学術文庫ででていたのだが、二冊合わせると三千円くらいだ。ちょっと待ってくれ、といいたい。


でも学術文庫とか文芸文庫ではこういうことは珍しくないし、絶版を考えるといずれ手に入れておくべき何だろう。


ユリイカ」はとても好きな雑誌のひとつだが、場所とお金の問題で毎月は買わない。ときどき買うだけ。古本になってもその手の古書店では値下がりしないので、欲しいものは絶対に買っておくべきなのだ。今回の特集は母娘問題なのだが、個人的に、いまあまり考えたくない。以下省略……青土社さん、お金のあるときに買わせていただきますので勘弁してくださいm(__)m


ということで手元にテキストがない。なんということだろうか。本になったら買わせていただきます……


最初に戻るけど、詩が改行なのだとしたら、この『いざ最低の方へ』はどういうものなのだろうか。ぱっと見れば分かることだが、改行は極端に少ない。ちょっとした小説よりも少ない。まったく改行のないページが二ページくらい続いたりする。これはどうしたことか。


どうということもない。改行をしないことも改行をするということだからだ。煮物をしている女がでてきて胸の痛みを感じてなにやら不思議なことになるのだが(初期村上春樹を柔らかくしたみたいな……ダリの時計みたいに)、書かれていることとわたしたちがユリイカの紙面に見てしまう文字が呼応してしまったりする。60年代の生き残りから見たらサイケデリック、ともみえるかもしれない(わたしはそんなに歳を取っていないが、サイケだとは思わないでもなかった……そういうふうにわたしのアタマができているからだろう)。


たぶんわたしが書いたらいいだろうということはこのくらいだ。ああもうひとつ忘れていけないことは、このテキストを読んでいた時間が至福であったということ。


何を読んでも至福な人は、不幸だ。おそらく。


あと念のために付け加えておくけど、これは批評でも何でもなくて、わたしがこのテキストを読んだ感想以外のものではない、ということ。本当はもっと批評があった方がいいと思うのだけど、あまりに眩しいテキストを批評することは、わたしにはできない。