『Soba to Bara』吉田アミ/中村としまる


レビューを書きたいものはいくつか溜まっているのだが、何か書こうと思うと絶望的な気分に陥る、というのは大げさで、すなわちわたしがここで何か付け加えたところで何がどうなるということもないだろう、ということだ。ほんとうは何も書かなくてもよいのではないのか、むしろ何も書かない方がよいのではないのか。


だから、いつでもわたしの書くものは、レビューでも感想でもなく、密かな懸想文なのだと思う。


ずっと待っていた一枚で、最初何度か聴いている途中で眠ってしまったので何も書けない状態が続いていた。わたしのCDリスニング環境というのは大昔の高級CDプレーヤーと、たいしたことないヘッドホンアンプと(たいしたことない、の基準は微妙だが)、数年前まではコンシューマー向けとしてはだいたいトップに位置していたヘッドホンを使っている。


これをベッドルームに置いているのだが、つい寝転んで聴いてしまうわけで、その結果どうなるかといえば、眠ってしまうのだ。なんというか、絶妙に心地よく眠くなるサウンドにチューンされてしまっている。爆音でラモーンズを聴いていても同じことが起きる。特に音楽には依存しない。


眠ってしまうもうひとつの原因には眠くなるクスリを常用しているということもあるかもしれないが、ベッドルームの電灯は蛍光灯だけど電球の色のものを付けてあるので、それも催眠作用として働いているかもしれない。


でも何よりも、横たわって聴いているからなのだろうな。以外とベッドの上で起きて聴いているのは辛い。


『Soba to Bara』(面倒なので以下『蕎麦と薔薇』と表記する……ってレーベルの意向に反する? でも封入されている中村としまると吉田アミによるコトバは日本語なので、いいことにさせていただきます)は、中村としまると吉田アミがそれぞれ別々に録音したものをまったくそのままミックスしてしまったものらしい。同時録音の場合、お互いのタイミングその他を意識的であるにしろ無意識的であるにしろシンクロさせてしまう可能性があるが、このやり方ではそれはあり得ない。でも不思議とジャストにタイミングの合うところがあったりして、結構不思議というか、ヒトのリズムみたいな何かがあるのだろうかなどと考えたり。


中村としまるはノーインプット・ミキシング・ボードということで、よく分からないけどたぶんミキサーのI/Oを繋いでフィードバックさせたりして音を作っているのだと思うけど、とにかく多彩で空間的だ。カラフルといってもいい(それはわたしがそういっているのであり、誰にもそれを押しつける気はない)。吉田アミはわたしが追いかけているただひとりのボイスパフォーマーであり、それはおそらく「まったく発想になかった、聴いたことのなかった」ショックに端を発する。表現の可能性とかそういうことを言うつもりはない。そんなことを言ってもなんにもならないのは誰でも知っていなければならない。あっという間にその辺に転がっている腐れた言説に回収されてしまう。蕎麦は伸び、薔薇は萎れるというものだ。


これで外堀のほんの少しは埋まったかもしれないし、ぜんぜん埋まっていないかもしれない。いずれにしてもこのCDのスリーブを開けたり閉じたりしているだけで、ちっとも前に進まない。どうなっているか知りたければ検索するよりも買って手にとって眺めることだ。ネットは便利だが、万能ではない、当たり前だが。どうして当たり前のことを繰り返し繰り返し書かなければならないのか。書かなくてもいいのかもしれない。


CD本体には不思議な文字みたいな模様が描いてあるが、なんであるのかはよく分からない。ついでに言えば、『蕎麦と薔薇』をテーマ(?)にした中村と吉田によるテキストが封入されているが、このレーベルは海外のものであり、日本以外で手に取った人の大半は読めないだろう、わたしたちが、英語くらいならどうにかなるが、それ以外の言語になるとほとんどお手上げの状態になるのと同じような体験をすることになるのだろう。


中村としまるのテキストも悪いわけではないが、吉田アミのテキストの鮮烈さには驚嘆せざるを得ない。というか、吉田アミさん、あなたはいったいいつの間にこんなに詩人になってしまったのですか? 「ユリイカ」に詩を掲載されるべきでしょう。


さて、音源は48分(らしいけど、CDプレーヤーでは確かめていない)、1トラック。聴くのにはそれなりに気合いがいるが(でも最近のやたらに曲数ばっかり多いアルバムとかよりもずっと聴きやすいけど)、黙って聴けばいいのだろう。踊って聴いてもいいけど、変なヤツになるか、階下の住人にショットガンで撃たれるかもしれない。


というか、最近は踊るために開発された音楽でも、座ってじっくり聴いてしまうわたくしなので、このあたりの問題に関してはあまりあてにならないかもしれない。


吉田アミのヴォイスに関しては、今さら何を言えばいいのかわからない。ヴォイスではあるが、わたしにはそれが演奏であるように思えて、そしてそのやり方、あるいは方法論が深化しているか、もしくは多彩になっているか、もしくはその両方なのだろう。中村としまると吉田アミのどちらが主で従ということは無いようにきこえるが、シンクロする瞬間があったとしてもそれは有機的なグルーヴといった類のものではない、もっと別の何かだろう。


書いてしまうととても詰まらないのだが、そこに見出してしまうのは、ある種のリズムだ。それは街を歩いているときについ「発見」してしまう類のリズムと似ている。たとえばずらっと並んだ自動改札機の奏でるリズムとか。


そういうのに「有機的」あるいは「無機的」をそれぞれ肯定的あるいは否定的価値を与えることはとても詰まらないことだと思いませんか?


『薔薇と蕎麦』の解題、というのもやってもいいのかもしれないけど、わたしには荷が勝ちすぎるし、エネルギーも尽きたので、ここまでかな。


読み返すのも面倒なのでもう一度繰り返すけど、これはレビューでも感想でもなく、密かな懸想文なのです。