音とことばの表層


ずっと前から表層ということを考えている。たぶんこれはアナロジーとしてしか語れないのではないだろうか。だとすれば事情は違うがバルトの『記号の国(表徴の帝国)』のように徹底的に誤解され、それで終わり、ということになるのかも知れない。もっとも、私とバルトを併記するなんておこがましいこと限りないが。


ひとつのコラムを書くほど考えがまとまっているわけでもないし、ましてや評論や論文をかくだけの能力は私にはない。


でもある事情から(個人的なものであるので割愛する)どうしても書いておきたいという気持ちがあるので、走り書きになってしまうがそれでもよい、ということにしておく。


表層とは何か。皮膜よりも薄い、水彩絵の具やインクよりも、分子や原子よりも薄いなにか。より正確にいうなら境界である。フラットに見える表面が分子レベルで見ればでこぼこで穴だらけだということに注目することによって初めて浮かび上がってくるようななにか。それら時間の経過とともに微細にあるいは大胆に構造を変える。


時間軸を導入しただけでは実は足りない。より多次元な空間を想定しなければならない。それは具体的だが誰の目にも単純に見えるように図示することはできない。だが、数学的な方法でなら記述できるかも知れない。私にはできないが。


拙いながらもわたくしが音や(もう「音楽」とは言わない。音楽なんてもう私には必要のない概念だ)ことばの表層にこだわり、それらを作り出そうとしたり、解析しようとしたり(「鑑賞」という概念ももう必要ない)しているのは、音やことばの集合体に、何らかの「意味」を付与することを決定的に避けているからだ。


なぜ避けるか? 答えは単純だ。「意味」を付与した瞬間にざわめいていた表層は固定され、そこには「解釈」という屑だけが残る。言い換えれば表層は「死ぬ」。


具体的には音やことばは標本化され、カテゴライズ趣味の人間の欲求を満たす死体と化す。


もし芸術というものが存在するのであれば、標本化された音やことばは芸術ではなく、単なる死骸だ。



つまりこういうことだ。ある美術作品を前にして、教科書通りの鑑賞方法しか認められていないことにさえ気付かない愚鈍さに陥るということ。


多用な解釈? そんなことを正気でいうとしたら、愚かなことだ。なぜなら時間というものがある限りにおいて、さらに人それぞれの脳のクロック周波数がシンクロしていない限りにおいて、だれも同じものを見たり感じたりすることなど最初からできないからだ。


しかもそれ以前に、脳内の神経の配線が同じであるということが前提とされている。もちろんそんなことはありえないし、異なる構造の脳が異なる時間軸(より正確には多次元空間)に散財しているとしたら、そもそも解釈などという概念は意味をなさない。


解釈とは、もっと便宜的な何かで、表層を見ようとするのにはあまりに粗雑な概念だ。


解釈なんていうものは最初から存在しないと考えた方がいい。ものすごく単純化して言えば、ある物体を複数の人間が同じ場所から見ることができないということだ。これは、同じ空間を複数の人間が共有できないということと状況は似ている。でもむしろ、繰り返しになるが、われわれは多次元空間にいるのだと考えるほうがより的確だろう。


解釈は、ある共通のバックボーンを前提としているが、それはわたしに言わせれば誤魔化しだ。理由は先に述べた通りだ。


つまりわれわれは誰ひとりとして同じバックボーンを共有していない孤独な存在であり、それを理解した上で初めて眼前に表層が浮かび上がってくる。


批評が始まる場所は、たぶんそこ以外にあり得ない。孤独からの出発。それ以外の「批評」は単なる好悪や意見に過ぎない。


今の時点で書けるのはここまで。