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最近はほとんど書いていなかった。数年分。3.11よりも前から。ここにあった分は全部消した。だいぶ前から考えていた。ここの存在意義はアーカイブだと気がついた。

コメントとトラックバック(近年はやらない。いまも使っている人はいるのか。スパム以外で)の未承認も見つかったが、いまさら承認しても無意味に思えるのでやめておく。申し訳ない。

ここは今後どうするか。はてなブログに引っ越すのがよいのか。なくなるのならばたぶんそうする。そうでないならばとりあえず放置。

以前はライブやイベントのレポートなどを書いていたが、今はもう出かけて行かないので書くこともない。体調の問題と経済的な問題。

そして、今どき珍しくスマホも持っていないし、フットワークを効かせた何かをするには無理がある。

もちろん、スピードが唯一の尺度ではない。わざわざ時間をかけたり手間を掛けたりする、というやり方を取る人もいる。

良し悪しではなく、使い分けたり混在させたり向かない方法をあえて戦略にしたり、そういうのがいいのだと勝手に思っている。

謹賀新年


ずっと何も書いていなかったので、やめたか、死んだか思われていても不思議はないのだが、そもそもここの読者というのが不特定少数または特定の記事の時に読みに来てくれる人くらいなので、誰も気に止めなくても不思議はないし、気に止めてくれないと拗ねるようなこともない。そう感じるには歳を取りすぎた。


夏以後心身ともに調子を崩し、同時に経済状態も一気に悪化した。こういうのは同時に起きるものだ。困ったときは相談に乗ると言っていた人であろうと、本当に困ったときに相談に行くと逃げられる。金が絡んでくるからだ。そして、逃げるのは人間関係を破壊しないためにはたいていの場合正しい。


世の中の困りごとの9割くらいはお金で解決できる。つまり、ほとんどの問題はお金でしか解決できないのだ。


経済的困窮に陥ったら、仕方ないが映画を見に行くのをあきらめたり、同じようにライブやイベント、展覧会もあきらめなくてはならない。


本やCDはその次だ。というのも、チャージが\1,500のライブを見に行くのに電車賃が同じくらい掛かったりするからだ。


残りのお金で生活するわけだが、住民税と国保は削れない。年金は支払えないでいる。引っ越すという手段もあるのだが、楽器可、本やCDもそこそこ置ける(床が抜けない)、都心までの距離が辛うじて耐えられる、となるとなかなかない。もっとも最近は都心に出ることも少なくなったので、もう少し遠くてもよいのだが、たとえば月二万円安いところに引っ越したとしても、年間24万円、遠いところだと引っ越し費用も嵩むので、案外メリットは少ない。医者の問題もあるし。


倹約よりも稼がなくてはならない、というのが現状だ。頑張ると倒れるので、いかに頑張らずに稼ぐか……そんなにたくさんでなくていい。誰かに養ってもらうという歳でもないし(キャラだったけど)、今さら気持ち悪いし。なんとか自活するのだ。

種ともこ スペシャル・ミニ・ライヴ 2009/10/03@府中フォーリス1F 光と風の広場

かなり久し振りに種ともこのライヴを聴きに行った。「光と風の広場」、というほど広くはない、ショッピングビル(つーか伊勢丹)の一角の吹き抜けのスペース。その場所がかなり気持ちのよい場所であることを知ったのは、セカンド・セットの最後の曲で種さんが「空」に言及したとき。

14:00〜と16:00〜の2セット。二回とも参戦。大正解だった。というのも、重複する曲が(たぶん)一曲しかなかったからだ。

基本的には電子ピアノ+歌、そしてときどきカズー(http://www2.yamaha.co.jp/u/world/index47.html)。

1stセット1曲目からがつん、と来た。帰ってきてからブログ見たら、風邪ひいてらしたらしいのですが、そんなこと微塵も感じさせずに。左手が強烈なグルーヴを生み出す。そこに右手のきらきら、でも力強い和音が重なり、自在なヴォーカルが……なんて書いてると虚しくなる。そういうのじゃなくて、どうしてもこころが揺さぶられてしまうような、何か。稚拙だろうと、わたしが書くのはそういうこと。

最初、ファースト・セットだけで帰ろうかとも思っていたのだけど(体調がいまいちだったので)、最後の「カナリヤ」を聴いて気が変わった。

大国魂神社の境内をちょっと歩いて(金木犀の匂いを捜していた。でも見つからなかった)、フォーリスに戻って遅いお昼。しばらくぼんやりする。

そのあとはフォーリスの中を歩いて時間潰し。ハロウィングッズが花盛り。何も買わないけど見ているだけで楽しい。

時間ちょうどくらいに種さん登場。

そして2ndセット開始。「ひこうき雲」。いきなりやられた。気分が悪くなるほど(自律神経がちょっとアレになっていたので)、泣きそうになるほど(これがあまりに素晴らしかったので、1stセット1曲目がなんであったか思い出せない……)。

そのあとはその感じで最後まで。帰らなくて本当によかった。

最後に新曲をやったのだけど、「東京の空は快晴」(「東京は抜けるような青空」が正解でした)というようなタイトルで、種さんからは外の天気の様子が見えていたのだ、ということに初めて気付いた。観客は窓に背を向けていた。仰ぎ見ると、青空が覗いていた。



セットリスト:
(それぞれ30分くらい。曲数や曲順の精度は五割くらい。もっときちんとしたこと書いてる人がいると思うので、そちらを捜してください。こういうのはわたしに向かないっていうか)


1st set(14:00〜)

(ど忘れ)
赤とんぼ
The Last Rose of Summer
(?????)
カナリヤ

2nd set(16:00〜)

ひこうき雲
赤とんぼ
砂山
出町柳
(新曲)
 
 

東京マグニチュード8.0

うちのあたりでは昨日が最終回だった。

何か書くとネタバレになってしまうのでこの時点での自分用メモみたいなものにしかならないのだけれど。

・いくつになってもわたしの本質がとてもナイーブなものであるらしいこと。そんなの全部わかってる、って言えるのに。

・リアルになんらかのカタストロフィに遭遇すると、わたしの場合は脳がブーストされて、恐ろしいほど冷静になってしまった。でもほかの人は違うのだろうか。

・アニメではそういうことになっていなかったけど、あの地震の設定だと東京湾内の津波というのも問題になるかも。

・結局何もしていないけど、防災対策したほうがいいんだろうな。問題なのは、防災用品ってハンズみたいなところ以外では防災の日前後しか揃わないこと。ホームセンターとかにはあるのかな?


東京マグニチュード8.0
http://tokyo-m8.com/
 
 

大友良英+青山泰知+伊藤隆之/YCAM Inter Lab+α『without records』@Vacant(原宿)

例によって体調を崩したり、お金がなかったり、その他諸々の事情であまり出歩いていなかったのだが、これだけは見ておかないと一生後悔しそうだったので、友人と待ち合わせて夕方から原宿へ。

今年になって原宿は二度目。あり得ない。あの辺にはあまり用事がないので。

友人を待っているうちにスッパンダに遭遇。黄色くて小さくて、可愛いけど、中に入ってる人はかなり小柄。標準的な女性も男性も直立して入るのは無理。写真は撮らなかったけど。そういうノリの悪さがわたしのよくないところなんだよね。干梅は貰ったけど。

しばらくして友人到着。すでにスッパンダは退却していたけど(夏場は地獄だよね、あれ)、干梅は配っていたので貰うように勧める。

それから竹下通りを通ってVacantへ。ちょうどバーゲンやっていて、信じられない価格でいろいろ手に入るのであった。アルバイト可能な女子高生か、年齢を気にしないゴスロリ女子なら1万もあればそこそこのものが手に入る。2万円もあったらすごいことに。

とりあえずわたしも友人もそういう年齢ではないし、同時に財布の中身がそのときとても乏しかったのでそれどころではなかったし、さらに妙に湿度が高かったりして(出掛けるときは雨が降っていたけど原宿駅に着いたら晴れていた)、体調も今ひとつになってしまっていた。

Vacantはちょっと分かりにくいところにあって、地図をプリントしていって正解だったかもしれない。夜だったらたどり着けないかもしれない。

ワンコイン500円というのはいくらなんでも安すぎるのではないでしょうか、という感じで料金を支払い(しかもその日のうちなら出入り自由!)、ドアを開けてもらって(なぜあのドアには取っ手とかそういうのが無いのでしょうか?)、くらい空間へと。階段を上ると最初はほとんどなにも見えない。荷物を入り口の近くに置かせてもらい、美しいポータブルプレーヤーの群れ(というのかな?)の中へ。

いちばん怖いのは転倒することだった。ので、細心の注意で。立ち止まったり、歩いたり、そしてどのプレーヤーも、とても美しいデザインをしていて、そこに不思議な仕掛けがしてあり、いろいろな音を出すのだった。

たぶん、どんな聴き方も許されると思うのだ。ひとつのプレーヤーに耳を傾けたり、会場の中心にたたずんだり、壁により掛かったり、座ったり(寝るのは控えましたけど)、いろいろ試しました。そして気まぐれのような、プログラムされたような、ランダムなような、規則正しいような、あるいはほとんど聞こえないような音に支配されたり。

しばらくそれを楽しんでから、ちょっと疲れたので休憩。休憩中にもうひとりの友人と合流、もう一度会場に戻ると、なんと大友さんが! いつもの感じでごく自然にそこにいらして。

あとでブログを見て知ったのだけど、音の出ていないものがあったそうで、それを調整しているところに立ち会ったのだが、一瞬にして音が生き返ったあの瞬間は、なんといったらいいのだろう、魔法? その場が一変するような経験。

そして先ほどよりも時間をかけてゆっくりといろいろな聴き方をして、友人のひとりが体力的限界、というところで撤退。

個々の体験としてしか捉えられない「展示」だと思うし、わたしには何かを書くだけの力はないけれども、ポータブルプレーヤーの機械としての魅力に始まって、展示の方法、出ている音(ターンテーブルやプレーヤーに何かの仕掛けがしてあって、それぞれ異なる音を出していて、しかもずっと回転し続けているわけでもなく、気まぐれみたいに3分の1回転、みたいな回り方をしたり、etc.)、そしてVacantという場の要素によって誰ひとりとして同じ体験をすることができない、座席がひとつ違ったからとかそういうレベルの話ではなく、誰もが同じ空間を共有し、展示を体験しながら、体験そのものは恐ろしく孤独なものであったと思うのだ。

孤独、というのは否定的な意味ではない。単純に、孤独。ひとりでいること。ターンテーブルの「森」の中を歩いていたことを思い返すと、そういうことではなかったのかなと。そしてそれは同時に至福の体験でもあるのだった。個人的見解だけど、至福はいつも孤独とお友達のような気がする。
 
 

fuzz fuzz fuzz #003 Effector 13(Devi Ever) Shoe Gazer

いま、ギター系轟音ユニットを組んでいることは前回Soda Meiserのときに書いたが、Soda Meiserの唯一の欠点は、あのとき使っていたギター(ジャガーだったっけ?)とマーシャルとの組み合わせと、もうひとつグライコを使うことによってOKが出ていたのだったが、BOSSのグライコとSoda Meiserのスイッチ同時踏みというのがなかなか難しくて、ループボックス入れないとだめかなとかいろいろ考えていたのだけど、ユニット自体ができるだけローコストな機材、ありふれた機材を主体とするものという方向性が出てきたので、またいろいろ変わってしまった。


ギターはジャガーではなく、シャーベルのサーフキャスターの廉価版。セミホロウではなくソリッドボディ。PUはSSH。シンクロナイズド・トレモロ。ネジが2本だけで止まっている。でもG&Lなんかもそうなっているので平気かなと。


お金ないんだけど、突然このギターにやられてしまって手元に来た。いろいろ問題点もあって、今後直していく予定。とりあえず細い弦に張り替えたりオクターブ調整をしたり。


このギターが、安物なんだけどジャキジャキした音がしてなかなかよい。でも店ざらしか倉庫に眠っていた感じで、ネックの状態が完璧ではないとかいろいろあるけど、その辺はあまり気にしない。使えないといえばリアのハムがなんともひ弱で、フロントとセンターのシングルに完全に負けている。いつかハイパワーなPUに交換してやりたい。


で、これを使った音作りをしようと思って、これまでは小型のVOXのアンプで行っていたのだけど、家にZOOMの古いアンシミュがあったので、それで音作りをしてみた。マーシャル対策。


……Soda Meiser + BOSS グライコがいまいちピンと来なくなってしまった。たくさん転がっている歪みの中から、BOSSのDS-1(台湾)を接続してやったら、これが実によく決まったのであった。ディストーションサウンドはそれでOK。でも爆音のときにはファズ的なサウンドを付加してやらないと物足りないので、Soda Meiserを試してみたわけだが、いまいち。ブーミーになり過ぎる。グライコ噛ますと何か違う、という感じになってしまって。


ちなみにディストーションもいろいろ試してみたのだが、なぜかDS-1、さすがのDS-1だったのだ。現行品。国産モデルも持っているが、現行品の方が音的には好きだ。固くて抜ける気がする。


ブーミーにならないファズはどれか? いろいろ考えて、前にスタジオではハイ上がりになりすぎて使えないと言われたShoe Gazerを。これだとうまい具合にローが削れるのではないのか?


目論見は大当たり。DS-1+Shoe Gazerでサウンドウォールを作ることに成功。


このShoe Gazer、実はかなり初期のもので、e13の名前が入っている(いまはDevi Everになってるのかな?)。たしかeBayで落としたはず。とんでもない名前だと思いながらもついw


ちなみにシューゲイザーの音楽はそれほど好きではない。マイブラは好きだけど、というか神だけど、シューゲイザーではないよね。靴見てないしw


でもケヴィン師匠、これも使ってるから笑っちゃうけど。つーか、Deviの作ったファズは全部持っているという噂も。ほんとかどうかは知らないけど。
 
 

『Soba to Bara』吉田アミ/中村としまる


レビューを書きたいものはいくつか溜まっているのだが、何か書こうと思うと絶望的な気分に陥る、というのは大げさで、すなわちわたしがここで何か付け加えたところで何がどうなるということもないだろう、ということだ。ほんとうは何も書かなくてもよいのではないのか、むしろ何も書かない方がよいのではないのか。


だから、いつでもわたしの書くものは、レビューでも感想でもなく、密かな懸想文なのだと思う。


ずっと待っていた一枚で、最初何度か聴いている途中で眠ってしまったので何も書けない状態が続いていた。わたしのCDリスニング環境というのは大昔の高級CDプレーヤーと、たいしたことないヘッドホンアンプと(たいしたことない、の基準は微妙だが)、数年前まではコンシューマー向けとしてはだいたいトップに位置していたヘッドホンを使っている。


これをベッドルームに置いているのだが、つい寝転んで聴いてしまうわけで、その結果どうなるかといえば、眠ってしまうのだ。なんというか、絶妙に心地よく眠くなるサウンドにチューンされてしまっている。爆音でラモーンズを聴いていても同じことが起きる。特に音楽には依存しない。


眠ってしまうもうひとつの原因には眠くなるクスリを常用しているということもあるかもしれないが、ベッドルームの電灯は蛍光灯だけど電球の色のものを付けてあるので、それも催眠作用として働いているかもしれない。


でも何よりも、横たわって聴いているからなのだろうな。以外とベッドの上で起きて聴いているのは辛い。


『Soba to Bara』(面倒なので以下『蕎麦と薔薇』と表記する……ってレーベルの意向に反する? でも封入されている中村としまると吉田アミによるコトバは日本語なので、いいことにさせていただきます)は、中村としまると吉田アミがそれぞれ別々に録音したものをまったくそのままミックスしてしまったものらしい。同時録音の場合、お互いのタイミングその他を意識的であるにしろ無意識的であるにしろシンクロさせてしまう可能性があるが、このやり方ではそれはあり得ない。でも不思議とジャストにタイミングの合うところがあったりして、結構不思議というか、ヒトのリズムみたいな何かがあるのだろうかなどと考えたり。


中村としまるはノーインプット・ミキシング・ボードということで、よく分からないけどたぶんミキサーのI/Oを繋いでフィードバックさせたりして音を作っているのだと思うけど、とにかく多彩で空間的だ。カラフルといってもいい(それはわたしがそういっているのであり、誰にもそれを押しつける気はない)。吉田アミはわたしが追いかけているただひとりのボイスパフォーマーであり、それはおそらく「まったく発想になかった、聴いたことのなかった」ショックに端を発する。表現の可能性とかそういうことを言うつもりはない。そんなことを言ってもなんにもならないのは誰でも知っていなければならない。あっという間にその辺に転がっている腐れた言説に回収されてしまう。蕎麦は伸び、薔薇は萎れるというものだ。


これで外堀のほんの少しは埋まったかもしれないし、ぜんぜん埋まっていないかもしれない。いずれにしてもこのCDのスリーブを開けたり閉じたりしているだけで、ちっとも前に進まない。どうなっているか知りたければ検索するよりも買って手にとって眺めることだ。ネットは便利だが、万能ではない、当たり前だが。どうして当たり前のことを繰り返し繰り返し書かなければならないのか。書かなくてもいいのかもしれない。


CD本体には不思議な文字みたいな模様が描いてあるが、なんであるのかはよく分からない。ついでに言えば、『蕎麦と薔薇』をテーマ(?)にした中村と吉田によるテキストが封入されているが、このレーベルは海外のものであり、日本以外で手に取った人の大半は読めないだろう、わたしたちが、英語くらいならどうにかなるが、それ以外の言語になるとほとんどお手上げの状態になるのと同じような体験をすることになるのだろう。


中村としまるのテキストも悪いわけではないが、吉田アミのテキストの鮮烈さには驚嘆せざるを得ない。というか、吉田アミさん、あなたはいったいいつの間にこんなに詩人になってしまったのですか? 「ユリイカ」に詩を掲載されるべきでしょう。


さて、音源は48分(らしいけど、CDプレーヤーでは確かめていない)、1トラック。聴くのにはそれなりに気合いがいるが(でも最近のやたらに曲数ばっかり多いアルバムとかよりもずっと聴きやすいけど)、黙って聴けばいいのだろう。踊って聴いてもいいけど、変なヤツになるか、階下の住人にショットガンで撃たれるかもしれない。


というか、最近は踊るために開発された音楽でも、座ってじっくり聴いてしまうわたくしなので、このあたりの問題に関してはあまりあてにならないかもしれない。


吉田アミのヴォイスに関しては、今さら何を言えばいいのかわからない。ヴォイスではあるが、わたしにはそれが演奏であるように思えて、そしてそのやり方、あるいは方法論が深化しているか、もしくは多彩になっているか、もしくはその両方なのだろう。中村としまると吉田アミのどちらが主で従ということは無いようにきこえるが、シンクロする瞬間があったとしてもそれは有機的なグルーヴといった類のものではない、もっと別の何かだろう。


書いてしまうととても詰まらないのだが、そこに見出してしまうのは、ある種のリズムだ。それは街を歩いているときについ「発見」してしまう類のリズムと似ている。たとえばずらっと並んだ自動改札機の奏でるリズムとか。


そういうのに「有機的」あるいは「無機的」をそれぞれ肯定的あるいは否定的価値を与えることはとても詰まらないことだと思いませんか?


『薔薇と蕎麦』の解題、というのもやってもいいのかもしれないけど、わたしには荷が勝ちすぎるし、エネルギーも尽きたので、ここまでかな。


読み返すのも面倒なのでもう一度繰り返すけど、これはレビューでも感想でもなく、密かな懸想文なのです。