春も夏もわたしの頭上を通り過ぎていく


吉田アミさんの『サマースプリング』出版記念パーティーがあったのが土曜。今日が火曜。ものすごく過去のことであるような気がする。結局行けなかったのだが、花は届いただろうか。そして今度の日曜日にひとつ歳を取り、今日から一週間後には芥川賞の発表がある。


実質的に、いま「文学」というものがあるとしたら、芥川賞を取っても取らなくてもノミネートされた、ということが重要だろう。選考委員にはろくに読み書きできないヤツも含まれているわけだし。あまりあてにならない。むしろそのひとつ下くらいの下読みの方がはるかに優秀だたりするなんていうのはよくあることだ。


ということで、なぜか吉田アミ川上未映子ストーカーと化しているのだが、や、ストーカーというわけでもないか。ただ、薔薇×薔薇ということで実現したが、このふたりがどこかで交差したら絶対に何かすごいことがある、と思っていたのだが、自画自賛で申し訳ないが、<化学変化>によって実現してしまった。お互いどこまで気付いているかわからないが、良くも悪くも相互に与えた影響は決して少なくないと端から見ているわたしは思っている。


よくわからないのは、なぜこのふたりが交差することで何かすごいことが起きるのではないか、とわたしが思ったことである。


話は飛躍するが、若い人は知らないかも知らないが、堀辰雄という作家がいた。割と下手くそな作家だった。代表作は「風立ちぬ」。作品によっては今の感覚では赤面せずには読めないものもあるが、それはその時代にカッコイイ表現だった。


風立ちぬ」はサナトリウムを舞台に、自分自身も結核、許嫁は重症の結核というカップルが地味に生活し、作家の妄想と回想によって成立している作品なのだが(無茶な要約だな)、最後の一章「死の影の谷」が冒頭の「風立ちぬ、いざ生きめやも(風が吹いた。さあ生きよう)」と対応している。友人によれば「死の影の谷」一章のために書かれた、ということだが、私もまったくそう思う。


主要作品の多くも、読んでると恥ずかしくなることばを全部取り去るか今風に変換してやると、生きることへのほとんど無根拠な執着がある。そしてまだ読んでいないが、吉田さんもそれをやってしまったらしい。


堀辰雄は許嫁が死んだあと、別の女性と正式に結婚しているのだが、結婚生活の大半は闘病生活だったらしい。こんなに苦しいならいっそ死なせてもらいたいな、とある時漏らしたら、奥さんが、それなら一緒に死にましょうと言った。すると、自死したら僕の作品はすべて無価値になってしまうんだと逆ギレしたとかしないとか。勝手な男である。関係ないが堀辰雄自身は男色家から人気があった。


これもまだ未確認だが、漱石の「写生文」もやってしまっているらしいし、吉田さんは、グレるほど甘ったれたりヒマな人生をおくれる人ではないらしい。


(参考:http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20070710/1184056567