『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』刊行記念 川上未映子さん×穂村弘さん トークショー@三省堂神保町本店2008年1月12日


歌人穂村弘さんを迎えての同書のトークショー。失礼な言い方かもしれないけど、穂村さんは写真よりもさらに素敵な方でした。順不同で思い出すままに。あまり正確ではないと思いますので、ほかの方のサイトを読まれたほうがいいかもしれません。


・最初に穂村さんが指摘したのは、未映子さんが言語感覚とテンションで書いている、ということ。言語感覚については後述。


・タイトルの中にテンション(という言葉だったかどうか、これが怪しい。でもたぶんそれ系の言葉)の違いがあるということ。「そら」の部分でその前とあとで言葉の感覚が違ったものになる。あるいは「先端で、」という硬い言葉のあとでくだけた言葉が出てくることで同じような効果が出ているということ。


・上記と類似して、本文でも敬語になったり大阪弁になったり、省略して普通の日本語の文としては成り立たないものが導入されることにより、やはり同じような効果が出ているということ。


未映子さん側からすると、タイトルの付け方にはこだわりがあるということだったが、のちに今のタイトルを省みたときに後悔するかしないか、ということを述べていた。


・それに関連して、あるひとつの物事が正しいとするならば、その反対の物事も正しいはずだという信念があって、たとえば『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』というタイトルにおいては「世界が頭の中に入る」ということを言いながら、一方でそんなことはないという、あたりまえのことだけど、留保があって、それが「そら」になるのだということを述べていた。


・言語感覚とは、すなわち言葉を単純なツールとして用いないこと。未映子さんの文章に対する評価として音声的というのがあるようだが、おそらくそれは読者がそれを感じ取っているから。でも未映子さんは言葉を音声的というよりも見た目で書いているのだそうだ。漢字の配列とかそんな感じ。


・二十歳くらいのときに樋口一葉を読んで大いに感激。ひとつの文の中にいろいろなものが入っていて、きらきらしている。ひとつの目標。


・意味の問題。よく意味がわからないといわれるらしくて、未映子さん自身はそのことについていろいろ考えているらしい。「フィネガンズ・ウェイク」は明確な言葉で書かれているが、個々の意味は分かりにくいのだが、なんとなく読んでいくと何が書いてあるか分かるという、その辺の話をされていた。


・詩と小説の問題。未映子さんはよく新聞なんかを大阪弁などに(注:おそらくは「未映子語」にも)翻訳してみたりするらしいのだが、たとえば中原中也の詩は、翻訳できないという。


・さらに詩と小説の問題。穂村さんが太宰を引いてきて、表現は忘れたが、干からびた文章だっけ? とにかく小説家といわれる人たちが書いているそういう文章を小説ではないと紹介し、でも実際はその逆で、太宰のほうが詩を書いてしまっているのであり、太宰が小説でないといっているほうが小説なのではないかと。


・さらに詩と小説の問題。未映子さんが太宰の「トカトントン」を引いてきたのは個人的に「繋がった」という感じがした。それはかつて高橋源一郎が太宰の中でいちばん好きな小説は「トカトントン」だと書いていたことがあったからだ。


・ところで未映子さんが試しに短歌を作ろうとしてみたらまったく作れなかった由。うまく説明できないのだけど、これはものすごく不思議な話で、作れない人にはどうしても作れないのだ。友人に歌人がいるのだが、なんというか短歌製造マシーンみたいな感じで、頭の働かせ方がまったく違うようだ。穂村さんもそうなのだろう。


・で、「トカトントン」の中に未映子さんは「きらきら感」を見る。


・この辺前後関係めちゃくちゃだが、穂村さんが銀色夏生の作品はなぜ現代詩にふくまれないのかという。


・そこで、小説家は小説を自己表現ではないというが、実は自己表現なのではないのか、樋口一葉や「トカトントン」のように「きらきら感」いっぱいではいけないのか? という問いが生じる。


未映子さんが現在書ける枚数は、十枚から百四十枚。『イン歯ー』は最初三百六十枚くらいあったらしいが、本人はそれはフライングだという。百四十枚以上は未知の世界だという。何か書いたことがある人は解ると思うが、その限界の枚数というのは意外と重要だ。


未映子さんのテキスト観。書かれてしまったテキストは誰のものでもなく、別な言い方をするならば読者からも作者からも同じようにアクセス可能である。だから、『イン歯ー』は今でも書き直しているそうだ。その距離を少しでも縮めたいという欲求によって。これは読者が同じテキストを何度も読み直すのと対になっているようにみえる。


・あと関西弁の使い方とかあるのだけど、それはほかの人に任せた。


・最後に「象の目を焼いても焼いても」の最後の部分を未映子さんが朗読、その後質疑応答、サイン会。


未映子さんは冬としては寒そうな恰好をしていらした。素敵でしたけど。


※どうでもいいけど、はてなでは、Amazonを踏襲して『先端で、さすわさされるわそらええわ』となっているのでありました。