川上未映子講演会 2008/11/15@日本大学法学部本館3階大講堂

この先しばらく講演会はないということなので(ないわけではないのだが、ご本人自身を語る、というものはいまのところ企画されていないはず)、万難を排して(というほど難があったわけでもないが、そこそこの難はあった)出掛けた。


なんかぎりぎりに到着したのだけど、思ったよりも人が少なくてちょっとがっかり。それほど宣伝していなかったからかもしれない。たぶん法学部の学生さんがいちばん多かったのかもしれなくて、あとは近所の経済学部とか、ほかにもいろいろ大学はあるし、あと、明らかに地元の人、それからまあファンの人、という具合かと。


司会・進行をされたのは、よく知らないけどアナウンサーの方だとか。


未映子さん登場。って、こんな書き方でいいんだろうか、と最近ときどき思わないでもないけど、そう呼んでいた時代が長かったので、今回もそれで行かせていただく。


トークショーなどにもときどき足を運んでいたりするわけだが、最初の頃はわりとなにかノートみたいなものを用意していらしたように思うのだけど、だんだんそれがなくなり、最近では手ぶら、みたいな。持ち物はテーマだけ、みたいな。といってもそれさえもほんとうは持ち物ではなくて、ある種の方向付けみたいなものでしかないのだけど。


看板にテーマが書かれていたな。横断幕じゃないんだよね。でも看板というのも変な気がするけど、講演会をやったりするときに後ろにつり下げられている板のことをなんていうんだろう?


まああれに表現がどうのこうのということが書かれていたのだけど、メモしてこなかったので忘れてしまった。今回は筆記用具を持っていったのだけど、こちらもむしろその場で話されていることばに集中するので手一杯、というのもあったけどその方が圧倒的に面白いしで、いつものごとくただ座って話を聞いていた。だからまたここから先は断片的だし、順序なども前後するが、そもそも未映子さんのしゃべっていらした話も実は行ったり来たり行ったり来たりだったし、そういうものだし、それに後半は質疑応答で、しかもかなりルーズな形での(もちろんいい意味で)やり方に終始したので、講演会としての形式はどんどん崩れていったが、ますます白熱して予想どおり時間をかなり過ぎた。結局ある時点での質問者が出尽くしたところで終了という形式。もちろん何の問題もない。最後に花束贈呈。


・正確なことばは思い出せないが、ひとつのあり方としての理想は村上春樹氏だという。どういうことかといえば、いわゆる純文学の小説を書いているのだけれども、よりたくさんの人々にそのことばが届くような方法で書いていると言うこと。


・哲学と「哲学的」の違い。哲学は感情などが入り込む隙間がないが(むしろ論理学や科学に近いだろう)、「哲学的」はそうではない。故・池田晶子氏などのやりかたは「哲学的」であったと思う。そしてご自身の書かれているものは当然の帰結として文学なのだから、哲学ではなく「哲学的」なものであらざるを得ない、ということ。なんて読みにくいんだ。申し訳ない。


・哲学のことばに形而上と形而下というのがあるが、形而中のところで書いているのではないのか(だっけ?)。


・「閉まっている窓はこれ以上閉まらない」と言うような人にひどく惹かれる。それはすなわち哲学の仕事でもある。


・「なぜ人を殺してはいけないのか」というと大きな問題になりすぎて考えにくくなってしまうので、「なぜ銭湯の中でおしっこをしてはいけないのか」と置き換えて考えてみることにより、わたしたちの生きている「世界」の規則の存在を顕在化できないかと考えてみた。すなわちそれらは単なる規則であり根拠がないということ。ルールの無根拠性。


・選択の余地のなさ。わたしたちは生まれてから死ぬまでほとんど何かを選択する余地がない。そもそも生まれるか否かを選択できなかった(ここで芥川の『河童』を思いだしてしまったのはいうまでもない。そして、死さえも体験できない(臨死体験はできるけど、死は誰にも体験できない)。


・違和感。これはどれと繋がっていたのだっけ……というくらいにリンクしていたような気がする。


未映子さんが東京でいちばん好きな場所は、たまたま講演会をした場所の近所なのだが、何となく書きたくないので書かないでおく。


・『乳と卵』における卵のぶつけ合いの、卵の持つ意味は、むしろぶつけるといったらやっぱり坊ちゃんでもそうであるように、卵だろうとのことでありました。


・『そらすこん』がウェブではなく本として存在していることの意味。未映子さんのほかの小説と同時に存在して参照可能であるということ。


(11月17日加筆)