グラボその後

電源を買いに行ったのはよいが、実は最近の電源事情をよくわかっていなかった。PCI-Eなんかはスロットの他に電源を必要とするカードもあるそうで。5年ぶりともなると、さっぱりである。


見切り品、超格安電源には懲りたので、少し上を目指すが、どう違うのかよくわからない。店員さんを捕まえていろいろ聞く。


すると、そもそも電源を交換して症状が改善されるかどうかわからないというのである。たとえば、グラボの初期不良の可能性も否定できないといったように。


昔は手元にいろいろカードが転がっていたが、最近は片端から売り払ってしまうし、PCI-Eは初めてなのでそもそも売る前に存在しなかった。


いろいろ考えた末、電源を買うことに。いずれにしてもチャレンジャーになるのであれば、いまいち評判のよろしくない電源を交換するところから始めるのがよろしいかという判断。


今度は昔からなじみのKEIAN。「静か」というやつ。550W。ファンの直径が135mmもある。静音電源ということになるだろう。約9千円。グラボとあわせて約2万円。もう少しきっちりリサーチしてから買えば良かった。


まずは念のために、マザーボードチップセットからの出力の状態でセットアップ。無事起動、動作。次にグラボを載せ、電源ON。無事起動。あっけないほど。ディスプレイ・ドライバまで共通していたので、一度起動した後再起動してセットアップ完了。


もっともそのあとBIOSをいろいろ変更していたら動かなくなったのでCMOSクリアなんてしなければならなかったけど。


軽くなったかと言えば、だいたい同じレベルのグラフィックエンジンなので、体感的には変わらない。1Gのグラフィックメモリは何かの役に立っているのだろうか。でもファンレスでそこそこというとこのくらいしか選択肢がなかったので、仕方がない。いろいろあってATIのチップにしたかったし。


もしかしたら、どこかをどうにかすればもう少しパフォーマンスが上がるのかもしれない。おいおい試していきたい。
 
 

BIOSの設定を少し見直す。

PCI-Eの設定が[AUTO]になっていたので、これを明示的に[x16]に変更。そうしたら、格段にレスポンスが良くなった。お金は掛かったけど(電源に関してはまったく元が取れていないけど)、まあ満足できる結果に。デュアルディスプレイにしたいところ。
 
 

グラフィックボードを買ったのだが……


パソコンの中身を入れ替えたまでは良かったのだが、デュアルコアなのにちっとも早くない。何となくだけど、チップセットでグラフィックの処理をしているときに、CPUもかなり仕事をさせられているようなのだ。


あんまりとろいので、グラフィックボードを買った。ファンレス、なぜかメモリが1Gもある。ヘンなのでついこれにしてしまった。


ところが、これを刺しても動かない。ほんとにどうしようもないくらい動かない。というか、起動すらしない。この電源は前にもこれをやらかしている。


ボードを抜いてもとの構成にしていろいろ調べるが、どうも新しい電源を買うしかないようだ。


にしてもいい電源は高い。安い電源で何とかなればいいのだが、同じ轍を踏むのも嫌だ。思わぬ出費。困ったものだ。結局思ったよりもお金が掛かっている。これなら最初からもう少し贅沢をすれば良かった。


とりあえず、あとで買いに行ってみる。悔しいし。
 
 

それは理解しているのだが


ぜんぜん関係ありませんが、いまだにはてなのシステムがよくわかりません。ブックマークって何なのか?


それはそれとして、吉田アミさんの記事、


http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20080707/1215375658


に対するブックマークで、このように書いたわけです。


>残念なのは、ゼロアカでも性別と年齢が問われてしまっていること(少なくとも性別に関しては明示的だ)。結構頭が固いと思う。


それを受けて、吉田アミさんは次のように書かれました。


>性別年齢が明記されている=頭が悪いは飛躍しすぎでは?明示することは必須ではないはすなので書き手が戦略的に利用していると考えるほうが無理がない。とはいえ匿名にして書くという個性があっても良かったかも。


ひとつ誤解なのは、頭が悪い、ではなくて頭が固い、であります*1。戦略的なのはよくわかっています。そうまでして何かをしたいこともわかりますが、そのプロセスにおいて、非常に重要な局面においてミスをしているような気がします。


それが何であるかは具体的に示すことができますが、個人的な理由からそれをしたくないので、しません。ただ、もやもやとしたものではなくとても具体的なもので、性別や年齢の明示(それがフェイクであるのならば、何も問題はありません)が、ある種の暴力として作用しているということは申し上げることができます。


それは、批評の暴力性とは関係がなく、むしろマスメディアの暴力性にたとえられるようなものです。つい先日終わったとあるドラマの例えようもない暴力性、といってもいいかもしれません。


だから、わたしはこの企画にいまひとつ期待する気持ちが起きないのです。ブレイクスルーを作りたいというのはわかるけど、そのための手段として、それならば何をしてもいいかといえば、そうでもないと思うのです。
 
 

*1:この問題に関してはすでに決着しています。

パソコン内部換装

パソコンは一台あれば何とかなってしまうものだが、一応予備のマシンもあったりする。そちらはSunのワークステーションの古いやつで、でもなんとかSolaris10が動作する。ただ、轟音、発熱マシンだ。地球に厳しい。それはそれで素晴らしいことだが、今回はメインマシンの話。マザーがK8V Delux、CPUがAthlon64 3000という組み合わせ、つまり、64bitのCPUが登場した頃の構成だ。

それなりに動いていたのだが、なぜか突然長考モードに入ってしまったり、そして音楽作成用のソフトがとうとうまともに動かなくなった。OSはXP SP3を導入した直後だった。

あと、HDDが数秒おきにアクセスするという謎の動作も発生していた。

ものすごく単純な作業しかしないのであれば、もう一度OSを入れ直し、様子を見るというのもありだが、今時のソフトのインストールはものすごく面倒なので、もしそれでだめならば目も当てられない。

ということで、思い切って中身を入れ替えることにした。というか、ケースとDVDとFDDとHDDの一部以外はすべて交換した。作り直したといっても過言ではない。ケースを変えなかった理由は、単純にゴミに出すのが面倒なのと、新しい構成でも冷却面などにおいて特に遜色がないと思われたからだ。

新しい構成は以下の通り。

チップセットにビデオ機能が内蔵されているのでそれを使用。Radeon HD 3200というのに相当するらしいが、ATIのドライバには3400からしかない。でもそれが使えるので、それを使っている。というか、それを使わないと不具合発生。BIOSも最新のものに変更するまでまともに動かない、それ以前に電源が入らないなど、今回はかなり悪戦苦闘した。とりあえず動作するまで丸一日では足りなかった。

ちなみに無駄に多く積んでいるメモリだが、ビデオメモリをメインメモリから持ってくるという理由による。今のところ256M割り当ててあるが、最高で512まで割り当てられる。その差に違いがあるかどうかは不明。あとはクロック周波数? だかなんだかを可変できるので、それもオーバークロックしてある。

それでもときどき一瞬画面の動きが止まるように感じられるような気がすることがある。やはり専用のボードを買うべきなのか? ちなみにデフォルトのデジタルの出力は、HDMIなのである。変換して普通のデジタルに接続している。

それから、電源は以前作ったときにはなかったか、有名ではなかったメーカーのものを使ってみた。安かったので。特にネットで調べたりはしなかったが、今のところ問題はないし、今後もなさそうな気がする。

全体として、低消費電力、静音化には成功した。新しいHDDは静かで、薄っぺらい。この方が冷却効率はいいだろう。今のところいちばんうるさいのはDVDであるが、DVDの鑑賞をするのにはじゅうぶん静かだし、CDの書き込みなんて滅多にしないし、パソコンでCDを聴いたりはしないので当分このまま。

あと、FDDが壊れた。コネクタを逆に接続したためか、長年の使用のためかは不明。新しいのを買う予定。

画像の描画速度だけが、ちょっとだけ気になるが、しばらくはこれで行く予定。結局Vistaの導入は見送った。あと、XP SP3も見送った。ブラウザはいまだにIE6である。ブックマークが常に表示されているのが使いやすいのである。
 
 
※その後あちこち検索掛けて、この電源の評判がひどく悪いことを知った。確かに最初は立ち上がらなくて参ったものな。でもなぜかUSBケーブルの接続が間違っているのを直したら、そのあとは普通に起動するようになった。あの場合、起動した方が良かったのかどうか、微妙でもある。あと、うちの構成だと電気をあまり食わないので問題が起こりにくい、という可能性もある。それと、うちのはつい最近に買ったので、何らかの手直しをしている可能性もなくはない。限定生産品なのになぜ在庫が残っているかと思ったら、そういうことだったのね。
 
 

Anne-Sophie Mutter / Trondheim Soloists 2008/06/08@サントリーホール


アンネ=ゾフィー・ムターの演奏は、過去において一度聴く機会があったはずなのだが、よりによってそのとき最初の配偶者が亡くなり、来日不可能となったのであった。カラヤンが世話をした、ずっと年上の方だったように記憶しているが、間違っていたらごめんなさい。


それ以後、何度も来日しているはずなのだが、こちらの事情とか、演目が苦手なベートーベンばかりだったりとか(そう、ある時期ベートーベンばかり演奏していた)、そんなことも重なって、あと、チケットの入手が困難なのと、入手できてもわたしにとっては非常に高価なので、なかなかその機会は巡ってこなかった。


今回は比較的早い時期に情報を仕入れて、ベートーベン中心でないことも確認し、S席は無理だったのでA席にし、ようやく聴く機会を得たのだった。


サントリーホールは二度目か三度目で、過去には迷った経験があるのだが、今回は昼間だったので迷わずにすんなり到着できた。


アンネ=ゾフィー・ムターが誰であるかを知らない人は、スルーしてほしい。


トロンハイム・ソロイスツは1988年設立、現在の芸術監督はオイヴィン・ギムセという人だ。これ以上は検索掛けてほしい。めんどくさい。「四季」のCDでも共演している。ソロイスツの名前に恥じない、素晴らしいアンサンブルだ。何しろ最初の一小節で、日本の梅雨を吹き飛ばしてさわやかな六月に変えてしまった。陳腐な表現で申し訳ない。だが、突然湿度が20%くらい下がった気がしたのはほんとだ。


     *


演目

  • バルトーク:弦楽のためのディヴェルティメント
  • J.S.バッハ:バイオリン協奏曲第2番ホ長調 BWV1042

  ――休憩――

  • ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」Op.8−1〜4


     *


最初のバルトークトロンハイム・ソロイスツだけ。バルトークらしい、というほどバルトークを知らないが、まあなんというかわたしが好きなバルトークだ。何を書いているのだ。この演奏で、先ほども書いたが、まるで乾いた爽やかな空気をそのまま日本に持ち込んだような、そんな気持ちになった。


そしてバッハ。長年の、やっとのことでのムターの演奏。大柄な人、というのが第一印象。そして音もでかいのだった。いや、もちろん小さい音も出せるが、サントリーホールくらいならばソロで十分に響き渡らせるくらいの大きさの音を出せる、という意味だ。そしてCDと同じ、あのムターの音がする。当たり前といえば当たり前だが、実際にその音を耳にすると、もうCDの音なんて平板で聴けないんじゃないかというくらい、あ、ことばが片端から討ち死にしている。つまりそういうことだ。


ソロを弾くとき若干ピッチを上げてまわりからふわりと音を浮き上がらせるのは、立体感といってもそれは四次元なわけで、聴いている側としてはその辺のコントロール具合によってもたらされる感覚が非常に気持ちよいのだ。ほかの何かにたとえても仕方がない。


あと、爆音なのだ。いつでもじゃないけど、あの小さな楽器ひとつでサントリーホールを支配できてしまうのだ、音量と技量において。


ことばにすると次々と大切なこと、肝心なことがこぼれ落ちてしまうが、泣きそうな感じではなくて、どうしようもなく嬉しくなるタイプの感動をしてしまうのだった。


そして、賛否両論よりもむしろ否定的意見の方が大きかったような気がする「四季」。これはもう、のっけから爆音で暴走なのである。観客がなぜか知らないけど小さなパート(楽章)の間ごとに咳払いをしたりするのだけど、必ずしもそれが終わるのを待たずに弓を走らせる。おお!


もちろん微細な部分での表現にも配慮はなされているが、森を見て木を見る、という気の配り方。超絶技巧にうっとりするというよりもほとんど打ちのめされる。そしてそれが快感だ。マゾヒストと呼んでほしい。


カーテンはないけどカーテンコールに続いて「四季」から二つの楽章と「G線上のアリア」をアンコールに。「G線上のアリア」は、典型的なタイプではなく、ヴァイオリンにたっぷりと歌わせる感じで。


そう、バロックとかバロック後期の音楽を専門にしている人からしたら、ムターの弾き方は言語道断なのかもしれないが、バッハやヴィヴァルディが聴いたら、絶対に納得すると確信している。もちろんなんの根拠もないが。


コンサート終了後にサイン会が開催されたことを付記しておいてもいいだろう。まさに長蛇の列。無料だったし。ヴァイオリン青年がケースにサインしてもらっているのがうらやましかった。
 
 

北里義之『サウンドアナトミア』出版記念ライブ 2008/06/03@新宿ピットイン


最近ライブレポートみたいなエントリーを書くことがいいのか悪いのか、というと語弊があるのだけど、本来流通できないものを強制的に言語化して記録する、ということになんとなく、そう、なんとなく疑問を感じることがあって、こないだ一本ライブレポを書き損ねた。書けなかった、というのもある。音楽について書くのは、批評ならばなおさらだが、たとえば単なるインプレッション、感想であっても、とても難しい。これは記録になるのだろうか。ならないだろうな。おそらくは、どこの誰ともしれない書き手の体験記の域を出るものは書けない。


では、全部CDやDVDにすればいいのかといえば、ある意味での精度は確かに上がると思うのだが、舞台中継をテレビで見ているときのような、あのもどかしさを体験することになる。


ただし、最初からCDやDVDとして流通させるために収録し、編集したものは別だ。それはライブとは別の、二次的ですらない、別の生産物なのだ。


だからもしこういうレポートを書く意味があるとしたら、どんなにバイアスがかかっていたとしても、その場所にいて、時間と空間を共有していたことの残滓が垣間見えるかどうか、ということになるかと思う。そのために必要なのは、たぶん、素直に書くこと以外にないのではないか。


     *


1stセット
・TRIO:中村としまる(no-input mixingboard)巻上公一(Vo,thermin)大友良英(TT)
・DUO:SachikoM(sinewave)巻上公一(Vo,thermin,etc.)

2ndセット
・「死人」:吉増剛造(朗読)吉田アミ(Vo)大友良英(G)

対談:北里義之+大谷能生


     *


この日は演奏中は禁煙だった。ひとつには吉田アミさんや巻上公一さんのようにボイスを使う人がいたからだろうし、ほかにも煙を嫌いな人がいたのかもしれない。わたしはたばこを吸わないので、禁煙の方がありがたいのだが。気が散らない。


1stセット。まずはトリオ。大友さんのTTは、スピーディー。誤解を恐れずにいえば、「洗練」された印象。としまるさんの出している音は、どこまでがそれなのか実はいまだによくわからないのだが(ソロで聴きたいです)、大友さんとの間で火花を散らすような、かといって絡みつくような性質ではないのだが、そんなことが行われていたことは、わかる。


巻上さんを見るのはものすごく久しぶりだが、まったく変わっていないので驚いた。テルミンと一体化した、ほとんどアンドロイド。いつの間にこんなすごいことになってしまったのか。


わたしは明らかに疲労していて、肩の力を抜け、と言っているのだが、ついものすごいテンションで演奏を聴いてしまう。それは単純なビートに身をゆだねる、というのとはまったく異なる体験。


Sachiko M巻上公一のデュオ。今回の出演者を決めた北里さんは直感で、と言っていたが、だとするならばとんでもない感覚だ。もちろんいい意味で。


あとで二人の対談で言語化されてしまうが、同じステージ上で、まったく「セッション」をしていないのだ。Sachiko Mさんの、その一徹さは並大抵のものではないのだが、巻上さんも負けてはいない。いや、最初少し合わせようとしたけど、途中からやめたのだ、たぶん。そういう合わせ方。Sachiko Mさんはマイペースというと怒られると思うが、絶対的な信念を持って、サイン波を瞬間的、あるいは持続的に出したり止めたりする。巻上さんは、最初は口琴などを使っていたけど、途中からはテルミン、そしてフリーフォームの「うた」(これは聴いたことのない人にはなかなか分からないかもしれないが、たとえばテルミンの両端を掴んで講談調で言語ではない<文字の羅列を発音したもの>を<しゃべる>。あるいは何か、演歌調などのメロディでそういうことをする。巻上さんのこれを知らない人は笑うかもしれない)をうたったり、やめたり、二人同時に音が止まったときの緊張感と来たら! 爆音とかいわゆる高度なテクニックとかいわゆる掛け合いなしでのあのテンションは、今後生きていくうちでも滅多に体験することはないだろう。


2ndセット。吉増剛造さんが顔の下半分を覆うようにセロテープで紙を貼り付けて、怪しげな雰囲気を漂わせていた。

大友さん、次もとにかくテンション高くて、今度はギターに持ち替え、弓で弾いたり、弦をゆるめたり、フィードバックさせたり、ありとあらゆることを、めちゃくちゃではなく、ものすごく的確にあるいは正確に、やっていた。


とにかく、最初に音を出したのは大友さんだった。吉田さんはドリンクを飲んで喉を整え準備。吉増さんは、何か怪しげな姿勢で舞台の中央から少し引っ込んだ場所で出番を伺っていたような。


やがて、吉田さんもボイスを出し始める。凄かった。週末日本海へライブに行って疲れていたはずなのに、凄かった。微音から、大友さんのギターのフィードバック・ノイズと呼応するかのようなボイスを。これも答えると言うよりも、むしろばらばらなのだ。

そして吉増さんもばらばらのことをする。順序は忘れたが、マイクの前で紙を破ってその音をほかの二人の音に載せる、というか別に出す。それから、詩を朗読する。怪しげなマスク状の紙をめくって、マイクの前で大声で、けいれん的に朗読する。それから、靴下とか下着を干すクリップ付きのハンガーに何か小物をたくさん付けたものを持ち出してきて、大友さんが演奏しているところに行き、ギターにぶつかるくらいのところで揺らせる。次に吉田さんのところに行き、半分ぶつけるくらいの感じで大きく揺らせる。挟んであった物がいくつも取れて落ちる。されに、ビデオカメラを持ち出し、大友さんのところへ行き、至近距離で撮影する。やはり吉田さんのところへ行き、至近距離で撮影する。それが何度か繰り返されるが、その間も大友さんは耳をつんざくフィードバック音を出したり、吉田さんはささやくようなボイスを出したりしているのだ。そういう空間が作り出されていたわけだが、視覚的には吉増さんはある種の接着剤のような役割を果たしていたかもしれない。


とにかくものすごいテンションの大友さんと吉田さんの演奏は、素晴らしかった。意外にもこの二人の組み合わせというのは聴いたことがなかった。


ここでわたしはエネルギーがほとんど切れたが、そのあとの対談を聞かずに帰れるはずもない。でも時刻はすでに22時を回っていた。大丈夫なのか、みんな? 大友さんが心配していた。ある意味そのくらい盛り上がっていた。


わたしは北里さんという人のことをまったく知らなかったのだが、間接的に大友さんのブログでどういう事情でこの本が出版されたのか、とか、その辺の事情は知っていた。詳しくは大友さんのブログを参照されたし。「大友良英のJAMJAM日記」で検索すれば出てきます。リンク貼らないのは、同じはてなだから。



じつは、北里さんが、もともとどういうことをされていた人なのかよく知らないという体たらく。ジャズに関わるところで仕事をされてきたのだろうけど、たぶんわたしはその時代のことをよく知らない。日本におけるジャズのことも、まるで知らないのだ。


巻上さんはずっと前から知っていたし、吉増さんは別の方面から知っていたが、ほかの出演者の方たちは、大友さんを含めてまったく偶然に知ったのだ。だから、大友さんがヒカシューに在籍していたということを知ったときにはほんとうに驚いた。


さて、北里さんの『サウンドアナトミア』であるが、そもそもこの本はmixiの北里さんの日記がもとになって生まれたということらしい。母親が倒れ、施設に入れるのではなく在宅介護を選んだ北里さんは、mixiの日記に評論を書き始めた。それを大友さんがしつこく(^_^; 読みに来て、出版、ということになったらしい。


大友さんは、ライブを聴きに来ないで評論をするやつなんて、と書いていたけど、その実非常に共感を持って読んでいたのだろう、きっと。微妙に偏屈だけどものすごくいい人、大友さん。この日も横から過激な発言をしていたけど、それは目立ちたいとかそういうことじゃなくて、うまく言えないけど、音楽が好きで好きでたまらない、ということによるのだ、ということが、わたしにさえよくわかるのだった。


でもそんなだから、大谷さんにフェンダーギターアンプをオークションに掛けられそうになったりするのだった(^_^;


対談については書ききれないので、ひとつだけ。時間感覚の問題。北里さんは母親の介護をしながら生活をしているわけだけど、その中で日本の医療のあり方を知る。それは、若い人が病気をしたときに直して社会に戻してやる、というもの。


でも、老人の場合はそうではない。もう、必ずしも現役で働く必要がなかったりするわけで、そうだとするとまったく違った時間感覚で生きるようになる。老人から見ると、現役で働いている若い人はスーパーマンのように見えるという。そのくらい違うらしい。


そこで微妙にジェンダー論と被ってくるのだけど、たとえばSachiko Mさんの音楽というのは非常に長い時間感覚の中で演奏されるもので、共演した巻上さんは、もっと短いフレーズで切れ切れになっている、いわば、もっと短い、あるいは速い時間感覚の中で演奏されているというのだ(ジェンダー論と関わってくると書いたのは、北里さんは前者を女性的、後者を男性的、と表現したことと関わってくるが、それについてはまた別の機会に、ということになった。これはもちろん身体的な性差の問題ではなく、ジェンダーの問題)。


その、長い時間感覚が、介護を必要とするような老人の時間感覚と共通する、あるいは想起させるものがある、というのだった。


これはなかなか興味深い問題だ。大友さんが、これに空間の問題を付け足した。そして、まだまだこういった音楽に対して語る言葉がない、というところで、終わり、ということになった。エンドレスになりそうな雰囲気だったので。わたしはそのまま帰ってしまったので、その後のことは分からない。どこかで誰かがもっと適切なことを書いていると思う。